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外国人母・発達障害・性的少数「26歳」男性の壮絶半生

LGBTの男性
フィリピン人とのダブルやLGBT、発達障害に対する社会の偏見を乗り越えて生きているショウタさん(筆者撮影)

普通にしていても「問題児」と言われた

「15分ほど遅れそうです」。待ち合わせ場所に向かっていたとき、ショウタさん(仮名、26歳)からこんなメールが届いた。事前に注意欠陥多動性障害(ADHD)だと聞いていたので、よくあることなのかなと思う。ところが、ショウタさんはオンタイムで到着。私が不思議そうな顔をすると、笑いながらこう説明してくれた。

「いつもは途中の風景やお店が気になって遅れちゃう。だから、約束の1時間前には30分とか、15分とか、遅れるという連絡を入れるようにしているんです。同じ遅刻でも、ワンクッション置いたほうがいいかと思って。でも、今日は(新型コロナウイルスの影響で)お店がみんな閉まってたので、ぴったり着いちゃいました」

ショウタさんにはほかにも発達障害と思われる特徴があった。ノートに連絡先などを書いてもらっているときに話しかけると「すみません、ちょっと待ってください」と止められた。書くことと、質問に答えることといった2つことを同時にできないのだという。

話を聞いたのはファミリーレストラン。近くの席の人が話をすると、ショウタさんはそちらの会話に気を取られ、そのたびに私たちの会話は中断した。周囲の話し声も電車や車の音も、ショウタさんには同じような感覚で耳に入ってくるらしい。

「小学生までは『ちょっと変わってるけど陽気なヤツ』でした。でも、中学生になると普通にしてるつもりなのに、先生から『問題児』だと言われるようになって……」

ADHDと診断されたのは18歳のとき。それ以降、新しく知り合う人にはあらかじめ「ポンコツだけどいい?」と冗談めかして言うようにしている。また、起床から洗顔、着替え、持ち物確認などを分刻みの音声で指示してくれる携帯アプリを使うことで、遅刻を減らすようにしている。ショウタさんなりの自己防衛策である。

発達障害にはできることと、できないことの差が大きい「凹凸」があるとされるが、一方でショウタさんは多くの「凸」に恵まれているようにもみえた。

授業で習ったリコーダーや吹奏楽部で担当したチューバの演奏は周囲の大人が驚くほどのレベルだった。取材中、店内にはクラシックワルツが流れていたのだが、それらはショウタさんの頭の中で「音符で再現される」という。

機械いじりが得意で、ネット経由でゲームのコントローラーや携帯の液晶画面のひび割れの修理を請け負うと、1台5000~6000円の収入になる。また、英語とタガログ語は接客ができるくらいのレベル。ほかにも「一度通った道は忘れない」「車が好きで、ADHDには珍しく運転が得意」など。

経済的には余裕のない母子家庭で育ったので、すべて独学である。「興味のあることだと集中するんです」と言う。

教師からの体罰や差別「フィリピンだからなー」

タガログ語ができるのは、ショウタさんがフィリピン人の母親を持つダブルだからでもある。また、ショウタさんはゲイ、恋愛対象は男性である。二重、三重のマイノリティゆえに幼いころからたくさんの差別を受けてきた。

学童保育では、施設側の不注意で母親の迎えの前にショウタさんが帰ってしまったことがあり、息子の姿が見えないことに驚いた母親と職員が口論になった。その数日後、職員たちが「ショウタ君のお母さんはフィリピン人だから、日本語通じないからいいよ」と小声で話しているのが聞こえたという。それ以降「みんなで遊ぶときに先生から『ショウタ君が入るとバランス悪くなるから違う遊びしてな』と言われたり、当たりが強くなった」。

中学校での昼食時、ほかの生徒はみな弁当箱を持ってきていたのに、ショウタさんだけがランチジャーに入ったカレーと白米だったことがあった。するとそれを見た教師から「ちゃんとした弁当を持ってこい」と注意された。この教師は続けて「フィリピンだからなー」とも言ったという。

教師らとの関係がうまくいかず、休みがちになったある日、生活指導の教師に体罰を受けた。「相撲でよく見る『のど輪』をされました。口答えとかはしてない。泣きながら謝ってもやめてくれなくて。息ができなくなって……。今も40代くらいの男の人の前に出ると(恐怖で)ヒッとなります」。以後、本格的な不登校になった。

その後、母親と校長と三者面談をすることに。その席で、校長はなぜか母親の手を取り、手のひらと手の甲を見ると「日本に来てから働いていない手をしているね」と言ったという。このとき、母親は生活保護を受けていた。「帰り道で母親がすごく怒っていました。僕にはなぜ怒っているのかわからなかった。でも、僕には妹が2人いるんです。小さな子どもを抱えながら働くのは難しかったと思うんですよね。今は母親の気持ちがわかります」。

母親は怠け者などではない。妹たちの手が離れてからは、飲食店の仕込みやホテルのベッドメイク、水産加工場などあらゆる仕事をして自分たちを育ててくれたという。

LGBTにとっても、日本は生きづらい社会だ。幼いころから、男の子同士が「お前ホモかよ!」とからかい合う、いわゆる「ホモネタ」を聞くたびに身が縮む思いがした。男子が少年漫画に夢中になる一方、女子と一緒にBL小説を読んで盛り上がっていた中学生のころまではまだ無邪気だったが、高校生のときに初めて男性と付き合い、自分がゲイであることを自覚すると、同時に罪悪感が芽生えたという。

専門学校では、教師から唐突に「お前、バイ(バイセクシュアル)だろ」と言われたことがある。ちょうど同性愛であることをアウティングされた大学生が自殺した「一橋大学アウティング事件」が起きたころだ。自分も暴露されるのではという恐怖から、話し方や趣味を変え、“男らしく”振る舞うようにした。

性的虐待、貧乏、売春、非正規差別…

ショウタさんは生い立ちも複雑だ。

ショウタさんは本当の父親を知らない。自分の父親は妹たちの父親とは違うことを、大人になってから母親に聞いた。養父は酒癖が悪く、母親に暴力をふるったという。さらにショウタさんに性的虐待を加えた。

「夜、母親に拒絶されて僕のところに来たんです。最後まではされなかったけど、こすりつけたり、手に握らせたり……」。小学校に上がる前、母親と幼い妹たちと一緒にこの男のもとから逃げるように引っ越ししたことを覚えている。

母親には生活保護を利用することへのスティグマ(社会的な恥辱感)があったのだろう。子どもたちが幼かった一時期を除き、生活保護は受けていない。だから、家庭はとことん貧しかった。ショウタさんはよく給食費が払えなくなった。中学生のころから、仕事で帰りが遅い母親に代わって夕飯作りはショウタさんの役割に。高校に入ってからは、アルバイトを掛け持ちし、バイト先の1つのスーパーから野菜くずや見切り品をもらっては家計を助けた。それでも、ガスや電気はしょっちゅう止められたという。

学校を卒業した後の仕事はなかなか長続きしなかった。初めて就職した大手アパレル会社では店舗で販売を担当。外国人客が多い店だったので英語のスキルが生きたが、上司からの指示を忘れてしまうことも多く、毎日にように叱責された。建築関係の会社では毎月80時間を超える残業があり、体がもたなかった。いずれも1年もたずに退職したという。

食いつめた挙げ句、ほんの一時期、男性を相手にした売春で糊口をしのいだり、数カ月間、生活保護を利用したりしたこともある。

その後、初めて障害者枠で就職。今は運輸関連の会社で契約社員として働いている。ただ、今回のコロナ禍で、正社員は補償ありの休業なのに対し、契約社員は「無給の欠勤」か「感染リスクを負いながらの出勤」の2択を迫られたという、典型的な非正規差別に遭った。収入は半減、4月の手取り額は6万円ほどだった。

ショウタさんの半生は壮絶だが、話しぶりは終始優しく、朗らかだった。自分が赤ん坊のころの写真は隣人や母親の知人などいろいろな人に抱っこされているものが多いと言い、その理由を「母親が明るい性格なんです。周囲を巻き込む力がある」と誇らしげに語る。

幼少時の虐待についても「行為の意味がわからなかったので、(養父を)憎む気にはなれないんです。むしろ性風俗で働いていたときのほうが精神的につらかった」と言う。

取材ではむしろ私のほうが怒っていた。とくにショウタさんが受けた人種差別には反吐が出る思いしかない。取材で出会う在日外国人からはたびたび「初めての差別体験は教師によるものだった」との話を耳にするが、残念ながらショウタさんも例外ではなかったわけだ。

「貧困ではあったが、不幸ではない」

怒る私に対し、ショウタさんは「当時、母親が言葉が不自由だったのは事実。争ったりしないで『ごめんなさい、もう少しゆっくり話してくれますか』とか穏やかに言えばいいんです。僕だったらそうするな」と言う。

これに対し、私が「『フィリピン人だから』という物言いがアウト。お母さんがアメリカ人やフランス人だったら、先生たちは同じ態度を取ったと思いますか」と尋ねると、ショウタさんは「まあ、たしかにそうかもしれませんね」と言う。ショウタさんが間違っているのではない。差別される側に、差別される理由を探させる社会がろくでもないのだ。

日本には外国人差別はないという人は論外として。「努力して差別されないようにしている外国人もいる」「私の周りの外国人はみんなうまくやっている」という人は少なくない。こうした物言いに対して私は「So what?」と返したい。それは白人至上主義者の典型的な言い訳である「I have a black friend」と同じくらい不毛なことだ。日本人はいま少し「差別する側の日本人」という醜悪な現実に目を向けるべきだろう。

私の怒りをよそに、ショウタさんはそれまでの人生を「貧困ではあったが、不幸ではない」と言う。お金があれば、自分が持つ突出した才能のいずれかを伸ばすことはできたかもしれない。でも、それはこれからでもできるというのだ。

ゲイであることは母親にだけカムアウトしたが、宗教的な理由から受け入れてはもらえていない。あからさまに否定されることはなかったものの、今も時々「孫はまだ?」と聞かれるという。一方で、ショウタさんには同棲して6年になるパートナーがいる。プライベートは充実しているように見えた。

運転が得意なのでタクシーの運転手もいい。ハードウェア関係の仕事もできるだろう。語学を究めたい気持ちもある。今クラリネットを勉強しているので、いつか人前で演奏できたらいいと思う。以前、高校の教員補助のアルバイトをしたことがあるが、人に教える仕事も向いているなと感じたという。

「人生の最後に笑っていられればいい」。ショウタさんはそう言った。

以上


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