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発達障害の「診断名」に振り回される親子の悲劇 その子の興味関心すら「症状化」してしまう

親が設定した目的には沿わずとも、どの子もその子のペースで必ず成長します

親が設定した目的には沿わずとも、どの子もその子のペースで必ず成長します(写真:Jake Images/PIXTA)

精神科医となって35年。現在は札幌市でクリニック「こころとそだちのクリニックむすびめ」を開き、「発達障害」が疑われて受診されるお子さんとその親御さんを診ています。

僕が医者としてどのように診立てているのか、詳しくは『「発達障害」だけで子どもを見ないで その子の「不可解」を理解する』という本にまとめました。

●子どもの発達と同時に「家族の思い」も診立てていく

僕は、診察室で「子どもの発達の診立て」を行いながら、同時にわが子の育ちを心配する親や家族の思いも診立てていきます。

「今、両親がわが子とどういった思いで向き合っているか」「家族がわが子の発達をどのように判断・理解し、医師とのやり取りに対して何を期待しているのか」ということも、重要な家族の診立てとなります。家族一人ひとりの思いやニーズはさまざまなのです。

診断は付けたくない親、知って覚悟したい親

診断は付けたくないけれど「関わり」は知りたいと言う親がいる一方で、診断名を知って覚悟をもちたいという親もいます。お父さんが無関心であることに悩み、「診断がある子なので、お父さんも頑張ってください!」と医師に発破をかけてもらいたいというお母さんもいます。

医療である以上、診断はとても重要なものです。それは疑いのないものです。しかし、「その子にどのような診断がつくか」と急ぐよりも、一人ひとりの思いや周囲との関係性について思いを馳せ、今できる生活の応援を考えることのほうを大切にしています。

●初回の診察で診断名は伝えられない

僕は、1〜2回の診察で診断名を伝えることはほとんどありません。病院で医師がその子に接するのは、切り取られた一場面であって、おそらく普段の日常の姿ではないはずです。診察室でその子が僕に見せてくれる姿が素の姿なのか、外行きの姿なのかは、ほんの数回では到底わからないと思っています。

ですから、初回の診察場面で、親御さんから初診の段階で「診断は付きますか?」「なんの障害ですか?」と聞かれても、「何回か診ないとわからないですよね」「検査も必要でしょうし、第三者の方々の日常の評価も知りたいですよね」というふうに、時間をかけてその子を診ていくようにお話をします。

●「診断名」がもたらすプラス面・心配な面

診断名は、決してその子のすべてを表現するものではありません。僕自身、診断名とは記号のようなものだと感じることすらあります。ただしその記号があることで、子どもの言動を理解するための1つの手がかり、いわば「共通認識」が持てます。

また、診断名が付くことのプラス面は、その子の生きづらさやつまずきが、本人の努力不足のせいでも、親の育て方のせいでもなく、「その子の脳のタイプによるものだから」という理解につながることです。

これまで気になっていた言動や育てにくさについて、ある程度の説明がつくようになれば、子どものことも、親自身のことも、責める必要はなくなります。それはとても大切なことです。

ただ一方で、診断名が付くことによって子どもの言動の捉え方が狭まってしまう、画一的になってしまう心配もあるのです。

数年前にお会いしたお母さんが、わが子の様子をこんなふうに語ってくれました。

「うちの息子は原っぱが好きで、いつも竹の棒を持ってトンボや鳥を棒で追い払うようにしながら、何時間でも走り回っているんです。それに、とても几帳面でミニカーをきちんと並べては、素敵な笑顔を見せるんです。私がそのミニカーをちょっと触って列を乱したりすると、ほんと真剣に怒るんです。それもまたかわいく思っていたんです。でも……」

ある日、子どもの発達について気になるところのあったお母さんが、病院で診てもらったところ、「お母さん、その行動は自閉スペクトラム症の〝こだわり〞ですよ」と告げられたそうなのです。

「その瞬間、今までは『かわいいな、素敵だな、ユニークだな』と感じていた子どもの行動が症状なんだ……と、見る目が変わってしまって。症状だったら『治さないといけない』と。だったら、今後は棒も持たせられないし、ミニカーも……。そんなふうに考えたら、『あの笑顔も症状なの?』って、いろいろと悩むようになってしまいました」

診断名が興味関心を「症状化」させる

「好きでトンボを追いかけて、好きでミニカーを律儀に並べる。それでいいと思いますよ。問題ありませんよ」

そんなふうに僕の意見を伝えると、

「先生、うちの子のこと、トンボが好きで鳥が好きで、走り回ることが好きで、ミニカーが好きで……そういうことが好きな子なんだって思っていてもいいですか?」

と、逆に問い返されました。

「もちろんです!」

僕はそう答えながらも、考え込んでしまいました。医学の診断名というのは、ある意味で、その子の興味関心すらも「症状化」してしまうことがあるのか、と。しかし、診断を受けた側が「症状化」された部分をコントロールしなくてはいけない、と考えてしまうのは、無理もないことかもしれません。

さらに、別のお母さんは、こんな話をしてくれました。

「うちの子は自閉スペクトラム症と診断されました。確かにミニカーを一列に並べたり、床屋のクルクル回るサインポールを飽きずに眺めていたり、電車や駅名をよく覚えていたりします。ほんとに教科書通りだなって。でも、最近になって、小学校の教室から飛び出しちゃうことがあって……もしかしたら自閉スペクトラム症ではなくて、多動症、ADHD(注意欠如・多動症)になったってことでしょうか?」

僕はお母さんの隣でじっと座っているその子に「なぜ教室を飛び出しちゃうの?」と聞いたところ、その子は「勉強がつまらないんだ」と教えてくれました。

診断名を出した瞬間に、「この子に近づく」というよりも、「その名称のことを学ぼう」というふうになってしまうこともあります。

育ち合う楽しみが奪われることも

診断名について熱心に勉強し、それが「〇〇な言動はこの障害の特性」「〇〇の特性に対しては、××な接し方をする」といった理解につながっていってしまう……。それももちろん、親御さんの一生懸命な思いの表れです。

しかし、それだけになってしまうと、その子と育ち合う日々の楽しみが奪われてしまうのではないだろうか……といった心配もしてしまうのです。

大事なことは、同じ診断名が付く子どもであっても、一人ひとり、その思い、言動はみな違います。まずはその子の思いに近づく努力をしたいと僕は日々思っています。

「自閉スペクトラム症のしょうたくん」「ADHDのあいちゃん」といった視点ではなく、その子どもの目線にまで達して、「しょうたくん、あいちゃんは、こんな気持ちではないでしょうか」というところから関わっていきたいのです。

●「やっぱり自閉スペクトラム症って……」とは言わないで

例えば、車のタイヤがクルクル回ったり、換気扇が回ったりするのを、ずっと見続けているようなお子さんがいたとします。そういう子に対して、「やっぱり自閉スペクトラム症って、こういう回るものが好きなんですよね」とひとくくりに表現してしまうのは、僕はその子に失礼だなと思ってしまうのです。

クルクル回るものを見て楽しむ子どもの気持ちが、「自閉スペクトラム症」という記号によって、「回っているものを見て、喜ぶ資質です」 といった説明で片付けられてしまうことに強い違和感も覚えます。

毎分何回、回っているんだろうとか、このスピードってどれくらい速いのだろうとか、回っているくせに、タイヤや換気扇自体は目が回らないのかなとか、そうやって考えているその子と付き合うと楽しいのに……と。

ほかにも「電車が好き」という男の子がいたとします。でも実は、好きな電車の世界の中にもいろいろあって、特急車両が好きな子もいれば、寝台列車が好きな子もいて、「キハ6000」の走行音が好きな子もいるし、路線図が好きな子も、無人駅が好きな子もいます。

時にそういったジャンルで話をしようとすると、「僕は、それはあまり好きではない」と言われたりもします。微妙にみな好みが違うのです。

そういうこだわりを僕は、つくづくおもしろいなあ! と感じますし、奥が深いなあ、と痛感します。「こういうタイプの子って、やっぱり電車が好きですよね」とひとくくりにされた日には、彼らから異議申し立てが出るんじゃないかと思うくらいです。

●発達障害は「生活障害」になるときに診断されるもの

僕は、発達障害とは発達が障害されているのではなく、生活に支障を来して「生活障害」になるときに診断されるものであると考えています。ですから、僕は「発達障害の診断」は正直、なかなか難しくても、「生活障害への応援」はそのときそのとき、できる範囲で設定できると思っています。

生活における具体的な応援を考えていくうえでは、「発達障害」というものさしも参考にしながら、同時にその子がどういう力を持っていて、何につまずいているかも診立て、「友達関係はどうかな?」「運動面でコンプレックスはないかな?」「学習面でついていけているかな?」といった生活場面にも注目し、その子の日常につながる手立て、生活の質を上げていくプランを考えていきます。

●「自分でわかるバカならそれほどひどくない」という慰め

学校生活では、学習が進むにつれてだんだん「できなくなる」子も出てきます。僕が昔担当していた小学生の男の子は、「みんなができて僕だけできないとき、『あー、これがバカってことか』と本当に自覚したんだ。でも自分でわかるくらいだからそれほどひどいバカじゃない。大丈夫って、自分で自分を慰めていたんだ」と語りました。

発達の偏りからくる学習のつまずきは、ただただ丁寧に繰り返し教えれば解決するというものではないことが多々あります。また、そういった子どもたちは得意なことと苦手なことがはっきりしている傾向があります。

そういう場合は、苦手なことを克服させようとする関わりよりも、優れているところをもっと伸ばしていくという関わりのほうが重要となります。

その子のペースで必ず成長していく

本人の努力が足りないという誤解を解くために、そもそも自分で自分を慰めるという思いをさせないために、大人は正しく関わり、本当の力を引き出して、「ほら、ちゃんとできたね」と褒めること。それを一番の目標とすべきだと僕は考えます。

親御さんは、わが子の育ちの不安や課題に注目していけばいくほど、その子が見せる日々のちょっとしたうれしい変化に気づきにくくなり、喜べなくなってしまうこともあります。

でも、どの子もその子のペースで必ず成長します。親が設定した目的には沿わずとも、どの子も結果としての育ちを見せてくれます。そのことを親や家族には喜んでほしいのです。僕からしたら、そういった瞬間は「よかったよね、うらやましいよ」と言いたくなるものです。

そんな一瞬一瞬を家族と共有しながら、その子の成長を一緒に喜んでいきたいと思っています。そしていつも、家族が一緒に関わる子育てにより、関係が安定したり、元気になったりすること、そして何よりも日々の生活を楽しめることを願っています。


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