小学4年生で不登校になった原野有里さん。自身の経験をふり返って語る「健全なひきこもり」とは?(写真:不登校新聞)
小学4年生で不登校をし、現在はフリースクール「東京シューレ流山」でスタッフを務める原野有里さん(29歳)にお話をうかがった。原野さんは、自身の不登校をふり返って「健全にひきこもれたのがよかった」という。
――不登校になったのはいつからですか?
きっぱり行かなくなったのは、小学校4年生の9月1日からですね。でも思い返すと小3ぐらいから学校がしんどかったなと思います。まじめで几帳面な性格だったんです。小学校中学年になると宿題やミニテストが増えてくるんですが、先生の言うことやまわりの空気を読み取って完璧にこなそうとしていました。当記事は不登校新聞の提供記事です
たとえばノートに10種類の漢字を5回ずつ書く宿題があると、チラシの裏に何十回も練習してからノートに清書していましたね。
ほかにも、女の子たちと同じものは好きじゃなかったし、あんまり明るい性格でもなかったから、目立つ子たちから嫌がらせや陰口を言われてハブられるようになったんです。
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仲のよい子はいましたけど、どんどん疲れていきました。それでも小3の1年間と小4の1学期は行ったり行かなかったりの「五月雨登校」を続けていました。完璧主義だったので、行くからにはキッチリやらなきゃいけなかったし、学校へ行かなければ自分には価値がないと思っていたんです。
でも、小4の夏休み明けに、学校へ行こうと思ったら、起きられない、体が動かない、パジャマから着替えられないという状況になりました。
親には学校がしんどい理由を言えなかったですね。自分でも整理できていないから表現できないし、当時は「理由がわからなかった」というのが本当のところです。今こうやって話せているのは、大人になってふり返れるようになったからだと思います。
――不登校になったとき、ご家族の反応はどうでしたか?
母も最初のうちは「着替えなさい」「ちゃんとご飯食べなさい」「学校の時間はテレビ観ちゃダメ」みたいな感じでした。だから家にいても学校のプリントやミニテストで勉強していましたね。
家で勉強するのはイヤでしたが「ただでさえ学校へ行ってないのに、こんなに不真面目になった」という引け目があったからです。そういう自己否定感がありました。
そのうち適応指導教室(現・教育支援センター)というのが近くにあるのを見つけて行くことになったんです。部屋に入ると、ちょうど同い年くらいの女の子や、ちょっと上のお姉さんが数人いました。お絵描きが好きでおとなしそうな、安心して話せる感じの不登校の子たちでした。
自分以外にも不登校の子がいて、みんな不まじめなわけじゃない、仲間がいるんだと思って心強かったですね。仲間に会えたという意味では、適応指導教室があってよかったと思っています。
その適応指導教室には週に1回、自分の予定を決めるという時間がありました。ずっと遊んでいてもいいんですが、まわりの子が給食や好きな授業時間、放課後だけ学校へ行くという予定を書いていたんですよね。
ほかの人の予定を見て、私も週に3回くらい給食登校をしていました。
――不登校の子への対応はどんな感じでしたか。
適応指導教室ですから学校へ戻そうという働きかけはつねにありましたよ。
私の通った適応指導教室は、文字どおり「学校への適応」を指導するところでした。給食登校も、ただ給食を食べに行くだけじゃないんです。学校復帰のためのワンステップに位置づけられていました。
そういう指導のなかでは「今度、授業へ行ってみない」と聞かれたら、行くしかなかったんです。だって断れない人間だったし、行かないと自分で自分を認められる要素がなくなってしまう。
「行ってみたら」という声がけは、私にとっては「行きなさい」と、ほぼ同義でした。
そんな生活を続けていましたが、小6の春か夏ごろに、今までがんばって張りつめていたものがパチンと切れてひきこもりました。お風呂にすら入らず、昼間は寝ていました。食事も冷蔵庫のものを全部食べる日もあれば、一日中何も食べない日もありました。
――なんで昼夜逆転しちゃうんでしょうか。
朝は一般社会の動き出すときだからイヤなんです。自分と同じくらいの年齢の子たちが目の前の道路を通ったりするから。でも夜は静かで「こうしなきゃいけない」のある世の中からちょっと離れた感じがするんです。
みんなとちがう世界にいられる夜は居心地がよいので、自然に昼夜逆転していきました。
朝食の準備をしている母に、夜中のテレビやラジオ番組の内容を話し続け「あぁスッキリした! 寝るわ」と言って自分の部屋にこもる生活でしたね。
母は「そうなんだ」「へぇ」と言って、ただ聞いてくれていました。今思い返してみると、どんなときも母は何も言わなかったですね。どんなに長いあいだ、お風呂に入ってなくても「お風呂に入ったら」とは言わなかったです。
――お母さんが聞くだけでいてくれたんですね。
母がすべてを受けいれてくれたので、落ち着きましたね。だからひきこもっていた時間は、今の自分のことを精いっぱい考えられた時間でした。ひきこもって本当によかったと思っています。あのまま流されるままに生きていたら、手首を切っていたんじゃないかなと思います。
私は不登校だけでなく、ひきこもりも肯定しています。ひきこもりって「健全なひきこもり」と「不健全なひきこもり」があると思うんです。健全なひきこもりは家のなかを居心地よく感じていて、自由にすごせます。
一方で「ちゃんとしなさい」とか「いつまで寝てるの」という空気が家のなかにあって、子どもが追いつめられちゃうのはひきこもりのほうが「不健全だな」と。
事件で見聞きするようなひきこもりは「不健全さ」ゆえに追いつめられたからだと思っています。
――でも不登校で子どもが家にいると親もストレスがたまります。将来の見えない不安もあるし……、どうしたらいいんでしょう。
私がひきこもったころ、母は親の会を立ち上げたんです。その親の会などで学んでいたんだと思います。
それと母は押し花が好きで、家にいないことも多かったんですね。家でも外でもいつも楽しそうにしている母の姿を見ていました。だからお母さんは家にいないほうがよいと思うんですよね。
お母さんは好きなことのために家にいない、子どもは家や安心できる居場所ですごすというのがベストじゃないでしょうか。
――ひきこもりはどうやって終わったんですか。
自然に終わりました。小6の春に、兄と楽しく遊んでいたころの夢を見たんです。目が覚めて「楽しいときがあったなぁ」と思い、兄弟で遊ぶために外に出てみたんです。
こんなふうにパッと外に出られたのは「ゆっくり休めた」からだと思っています。ひきこもってゆっくり休めたからこそ、外に出られたんですよね。
ひきこもりを終えてから「○○しなきゃいけない」という気持ちは、少しやわらいでいました。給食登校をしなくてもいい、適応指導教室だけですごしてもいい。そう思えるようになり、中学生時代は、家と適応指導教室と学校、3つの場を行き来していました。
――最後に不登校や学校に行きたくない子に向けてメッセージをお願いします。
学校は休んでいいよってことですね。でも、そういう子たちってどんなこと言われても届かないと思うんですよね。だから保護者の方に向けてのメッセージにします!
学校に行かなくても、大人になる道はいくらでもあることを伝えたいです。内申書がなくても受けられる高校はたくさんありますし、私が卒業した高校は入学試験もありませんでした。フリースクールという道だってある。もし学歴が心配だったら「高等学校卒業程度認定試験」もありますね。
高校へ行かずに就職している大人や、フリースクールに通ったことで不登校を1ミリも否定的に捉えていない人もたくさんいます。それに学歴をつけなくても安心できる居場所で安心できる仲間たちとすごしていたら、いくらでも楽しい大人になれるんです。
楽しくすごしていた人は、どこに行っても楽しめるから平気なんですよね。子どもは自分のことを自分でちゃんと考えて、自分に合った道を自分で探します。
だから保護者の方も、情報収集をして高校以外にも進める道がたくさんあることを知ってほしいです。
――ありがとうございました。
(聞き手・赤沼美里)
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