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郊外に住む3人家族。62歳の父親は3年後にリタイア、60歳の母親は無職、30歳の長女は中学校時代のイジメが原因で、一度も働いたことがない。家計相談を受けたファイナンシャルプランナーは障害年金の受給を薦めたが、「私なんかがもらっていいのか」とためらう。その問いにどう答えるべきか――。
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ある平日の午後。筆者は郊外の一軒家を訪ねました。ご家族から「ひきこもっている長女本人(30)も同席したいと言っているので、自宅まで来てほしい」との依頼があったためです。
室内のリビングテーブルに座った筆者は、母親(60)と向かい合っていました。しかし、長女の姿はありません。母親は申し訳なさそうに頭を下げました。
「長女も同席するはずでしたが、体調が優れないようで自室で休んでいます。主人(62)は会社へ行っており不在です。相談は私ひとりでもよろしいでしょうか?」
「全然構いませんよ。あまりお気になさらずに」
筆者はそう言い、まずはご家族の状況と家計状況を伺うことにしました。
【家族構成】
父親(62歳/会社員)
母親(60歳/無職)
長女(30歳/無職)
※自宅は持ち家(ローン完済)、父親の手取り月収は25万円で家計の収支はトントン。
「主人は継続雇用で働いていますが、今の会社は65歳までしか働けません。そのため65歳でリタイアを予定しています。そうなると世帯収入はかなり減ってしまいます。再就職しなければ毎月約25万円の年金だけです。貯金は退職金を含めて約2000万円ありますが、長女は主人の収入が減ることで月々の家計が赤字になるのではないかとひどく心配しており、お金の不安を口にすることが増えてきました」
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マイホームや預貯金もあるので、両親の老後はあまり心配ありません。しかし、両親が他界して年金収入が途絶えると、長女の暮らしは経済的に厳しくなるのは明らかです。
「なるほど。ちなみにご長女は働くことは難しいのでしょうか? 正社員にこだわる必要はなく、パートやアルバイトでも構わないと思うのですが」
その言葉に、母親はより一層苦い顔になりました。
「長女は今年で30歳になりましたが、今まで一度も働いたことはありません。現在の状態では働くことは難しいと思います。お金の不安を主治医に相談したところ『障害年金を請求してみたらどうか?』と言われました」
「そうなんですね。ご長女のご病気はどのようなものですか?」
「今までいろいろな病院にかかってきました。そこでは、不安障害、パニック障害、うつ病などと診断されました。現在はうつ病で治療を受けていますが、病状はあまりよくなっていません。長女は障害年金がもらえそうでしょうか?」
母親は不安を隠せない様子で、早口でそう訴えてきました。母親に少し落ち着いてもらう必要があると感じた筆者は、できるだけゆっくりと話すように努めました。
「症状の重さなどで、障害年金が受給できそうかどうかはある程度わかります。ですが、実際のところ『障害年金は請求してみないと受給できるかどうかはわからない』というところがあります。それでもよろしければ、私が請求のお手伝いをしますよ」
「はい。ぜひお願いします」
母親は少しほっとした表情を見せました。
障害年金の請求に向けて情報を整理するため、筆者は母親に質問をしました。
「障害年金の場合、初めて病院で診療を受けた日、つまり『初診日』を確認しなければなりません。ご長女の場合、いつ頃になりますか?」
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この質問に対して母親は自信なさげに答えました。
「昔のことなのではっきりとした時期は覚えていませんが、おそらく中学生の頃です。当時いじめにあって体調を崩してしまい、病院に連れて行った記憶があります」
当時の状況をもう少し詳しく聞く必要があったため、さらに母親からお話をしてもらいました。
長女が中学生の頃、おなかを下すことが多くなったので近所の内科へ連れて行ったそうです。しかし、そこでは特に異常は見られませんでした。気になった母親は長女に問いただしたところ、学校でいじめを受けていたことがわかりました。
当時、母親は「学校を休むなんてとんでもない。社会に出たらもっとつらいこともある。ここを乗り越えさせなければ、この子は駄目になってしまう」と考えていたので、嫌がる長女を無理やり学校へ通わせてしまいました。
その結果、長女は食欲がどんどんなくなっていき、よく眠ることができない、体がだるい、頭がぼーっとする、勉強に集中できない、といった症状が出ました。結局、中学校へ通うことができない状態まで悪化。そのまま卒業まで学校に通うことはありませんでした。
中学卒業後、ひきこもっている長女を心配した母親は、長女に通信制の高校を強く勧めました。母親には「どんな状況であっても、勉強はできたほうが良い」という考えがあったからです。
長女はしぶしぶ母親の提案を受けましたが、もともとあまり乗り気ではなかったので、結局長続きはしませんでした。
そのような長女に対して、時に母親は厳しい言葉を投げかけてしまったそうです。
それに対し長女は「自分は何をやっても駄目な人間なんだ。この世に必要ない人間なんだ」などと叫びだし、自暴自棄になってしまいました。時には母親に暴言を吐いたり、暴力をふるったりすることもあったそうです。その後、複数の病院に通うものの、症状は一向に改善せず、悪化するばかり。
「もっと別の方法で長女に接することもできたはず。しかし、当時の私にはそんな余裕はありませんでした」
母親は一通り話し終えると、室内はしーんと静まりました。しばらくした後、筆者はこう告げました。
「いろいろとおつらいこともあったんですね。ですが、今は前に進まなければなりません。もう少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
母親は、どうぞ、と言ってうなずきました。
「障害年金の請求に必要な書類はいくつかあります。その中のひとつに『病歴・就労状況等申立書』というものがあります。その書類には、ご長女が体調を崩してしまった時から現在までの状況を記入していきます。先ほどお話をしていただいた内容を簡潔にまとめていく、というイメージで大丈夫です。なお、通院や入院していた場合は、それぞれの病院名とその期間、当時の治療や日常生活の状況などをできるだけ詳しく記入していく必要があります。先ほど『いろいろな病院に通った』とおっしゃいましたが、思い出せる範囲で構いませんので教えていただけますか?」
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すると、母親は数冊のお薬手帳を筆者に差し出しました。
「全部は思い出せないのですが、少なくともこのお薬手帳にある病院には通っていました」
お薬手帳の中身を見てみると、内科、耳鼻科、婦人科、心療内科、精神科など十数カ所の病院に通っていたことが分かりました。
精神疾患を持っている方の場合、病院をどんどん変えてしまうのは珍しいケースではありません。ちょっとしたきっかけで医師が信頼できなくなってしまった、良い病院だったけど遠くて通うのが大変になってしまった、などの理由で病院を変えるのはよくある話です。
お薬手帳を閉じた後、筆者は母親に説明をしました。
「障害年金では、最初に受診した病院で『受診状況等証明書』という証明書を書いてもらう必要があります。初診が中学生の頃となると、今から15年以上も前のお話です。当時のカルテは病院に残っていないと思われるので、証明書を書いてもらうことは難しいかもしれません」
「じゃあ、もう駄目なのでしょうか?」
「いいえ。まだ方法はあります。初診日が20歳前であることが証明できれば何とか請求までこぎつけることができます。具体的には20歳前に通っていたと思われる病院に片っ端から問い合わせて、証明書を書いてもらえないか確認を取っていくのです。仮にどの病院でも書いてもらえなかったとしても、20歳前に病院に通っていたことがわかるお薬手帳があるので何とかなるでしょう。さらに、病歴・就労状況等申立書にできるだけ詳しく当時の状況を記入していけば、可能性はゼロではありません」
「病院はたくさんありますが、大丈夫でしょうか?」
「ご心配なく。それは私が何とかします。あとはご長女の意思が確認できれば、私のほうで病院に問い合わせることもできるのですが……」
筆者がそう言うと、ふいにリビングの扉の開く音がしました。音のしたほうを向くと、そこにはパジャマを着た長女の姿がありました。顔は青白く、無表情。そこには感情というものが全く感じられません。筆者は状況が理解できず、しばらく固まってしまいました。
すると、長女はふらふらとした足取りでゆっくりと歩きだしました。体を動かすのも大変な様子で、今にも倒れてしまいそうです。母親はすぐさま立ち上がり、長女のもとへ向かいました。長女と母親は寄り添うようにしてゆっくりとテーブルまで歩を進め、それぞれの椅子に腰かけました。
親子が椅子に座ったのを確認した後、筆者は長女に向かってあいさつをしました。
長女は軽い会釈でそれに応じ、抑揚のない声で話しはじめました。その声は注意していないと聞き逃してしまいそうなほど小さなものでした。
「自分の部屋を出るタイミングがわからず、ドアの向こう側でしばらくお話を聞いていました。そこで気になったことがあるのですが、もし障害年金がもらえたとすると、いくらくらいになるのでしょうか?」
話をしている間、長女の息からは胃液の酸っぱいにおいがしていました。そこからは、食事も満足に取れていないことが分かります。さぞかし体調も優れないことでしょう。筆者は長女の反応を見ながら、金額の説明をすることにしました。
「初診日が20歳前なので、障害基礎年金の請求をすることになります。障害基礎年金には1級と2級があります。仮に2級に該当すれば、月額換算で約6万5000円がもらえます。さらに障害年金活者支援給付金が月額約5000円上乗せされます。つまり月額で約7万円の収入になります」
「月7万円は大きいですね。でも……」
長女は不安を口にしました。
「私は働いていないのに、そのようなお金をもらっても良いものかどうか。また、障害年金をもらっていることが近所にばれてしまい、何か言われてしまうのではないか。それがすごく心配です……」
筆者は長女の不安を払拭するように、あえて毅然とした態度で告げました。
「障害年金は国で定められた制度です。ご病気などにより、日常生活や仕事が制限されてしまった方を支えるものなので、受給することにうしろめたさを感じることはありません。また、受給していることはご本人やご家族から言わない限り、ご近所の方に知られてしまうこともありません。仮に知られてしまっても、別に悪いことをしているわけではありませんから、あまり気にする必要はないと思います」
「そうなんですね。ちょっと安心しました。障害年金の請求をしようかどうか迷っていましたが、請求してみようと思います。お手伝いいただけますか?」
「はい、構いません。大丈夫です。ですが、その前に確認しておきたいことがあります」
長女は、何でしょう、といったそぶりを見せました。
「先ほどお母様に申し上げましたが、添付書類のひとつに病歴・就労状況等申立書というものがあります。その書類に、体調を崩したときから現在までの状況をできるだけ詳しく記入していきます。もちろん記入は私がしますが、その前にご本人やご家族から聞き取りをする必要があります。つまり、ご本人には過去のつらい出来事に向き合っていただくことになってしまう、ということです」
長女は静かに耳を傾けています。筆者は続けました。
「つらい過去を振り返ることで、時には体調を崩してしまうこともあると思います。なので、振り返りは一人でせずに、お母様と一緒にするようにしてください。メモはお母様に取ってもらうと良いでしょう。振り返りに時間がかかっても構いません。ご本人のペースで大丈夫です」
長女はしばらく黙っていましたが、やがて小さな声で答えました。
「分かりました。振り返りには母にも手伝ってもらおうと思います」
母親を見ると、もちろんというように小さくうなずきました。
「では、委任状にご記入をお願いします」
筆者は長女に数枚の委任状とペンを渡しました。ペンを受け取った長女はさっそく委任状を書こうとしましたが、その手は小さく震えています。これでは字も満足に書けそうもありません。それを見た母親は、心配そうな表情で長女に語りかけました。
「あまり無理しなくていいのよ。何だったらお母さんが代わりに書こうか?」
長女は手を前に出して母親を静止しました。
「大丈夫。自分で書く。これくらいはやらせて」
そう答えた長女の目には、覚悟の灯がともっているように感じられました。
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母親はすがるように筆者を見やりましたが、筆者は長女の意見に同意しました。
「ご長女がやれそうなことは、できるだけやってもらいましょう。書くのに時間がかかっても大丈夫です。私は待ちますよ」
それを聞いた母親は観念したようで、何も言いませんでした。
長女は時々手を休めたりしながら、長い時間をかけて数枚の委任状を書き上げましました。
委任状を受け取った筆者は、長女と母親に言いました。
「では、これから請求に向けての行動を起こしていきたいと思います。時間と手間がかかって大変ですが、一緒に乗り越えていきましょう」
「はい。お願いします」
わたしたち3人は互いに顔を見合わせ、決意を新たにしました。