幼稚園の頃からしばしば”乖離”を起こしてきたなつきさん(仮名)が、「普通に幸せ」と言える状態になった今、届けたい感覚とは(写真:丸山さん提供)
主治医とともに会場を歩くその人は、私の友人にもいそうな、ごく普通の同世代の女性でした。丸山なつきさん(仮名)、48歳。「養父から身体的虐待、母親から精神的虐待、叔父から性的虐待を受けて育った」という過去は、本人が語らない限り想像もつきません。
小さいときから日々受けてきた虐待と、これによって生じた多重人格や、処方薬依存の症状。そして、今の主治医や病院と出会ってからの再生の日々――。取材受付フォームから届いたなつきさんのメッセージには、言葉を失うような過去が記されていました。
メッセージの最後には、近々ある講演会で「虐待サバイバーとしての体験談を話す」ことが添えられていました。「行ってみよう」と決めたのは、正直なところ、初めから1対1で話を聞くのが少し怖かったからでもあります。
10月のある朝、上野から新幹線と在来線を乗り継いで、長野市内の会場へ。なつきさんは、主治医である松本功氏(赤城高原ホスピタル副院長)の講演の終盤に登壇しました。
私が彼女から直接詳しい話を聞かせてもらったのは、その日の午後です。会場の白い小さな控え室にはスタッフが家から持ってきた果物のタッパーが置かれ、かわいらしい彩りを添えていました。
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関西の下町に生まれたなつきさんは、母親の再婚相手である養父から激しい暴力を受けて育ちました。養父はアルコール依存でした。朝は蹴り起こされ、食事は日に一度もらえればいいほう。数日食べさせてもらえないことや、全裸で裏庭に出されることもたびたびあり、両手を骨折したり、熱湯を浴びせられてひどい火傷を負ったり、いつも体のどこかに傷を負っていました。
生き延びられたのは、近くに住む祖母や叔父が病院へ連れて行ったり、ご飯を食べさせたりしてくれたからです。しかし、叔父はその“見返り”として、なつきさんに性的虐待を繰り返しました。触られるだけでも耐えがたいことでしたが、同居する祖母や叔母、いとこたちがいないときは「好き放題だった」といいます。叔父による虐待行為は、4歳くらいから中学1、2年の頃まで続きました。
性被害を受けた人には大変よくあることですが、なつきさんは長い間この性被害について、“罪悪感”を抱えて生きてきました。被害者がなぜ罪悪感など抱かなければいけないのか? 理不尽な話ですが、なつきさんは「もっと空腹に耐えればよかった。いっそ大きなケガをして死んでしまえばよかった。それができなかった自分は弱い人間だ」と自責していた、といいます。
なつきさんは幼稚園の頃からしばしば“乖離”を起こしてきました。乖離というのは、処理できないほどの強烈な刺激を受けたときに起こる、感覚のシャットダウンです。いつからか多重人格の症状もあり、何人か別人格もいたのですが、本人からすると「その部分の記憶はオフ」なので、覚えてはいません。
母親は表立ってなつきさんを助けてくれることはありませんでした。「お前さえいなければ」「産むんじゃなかった」など、存在を否定する言葉をたびたび聞かされたため、物心がついた頃から「私は間違ってこの世に生まれてしまった」と思ってきたそう。
7、8歳の時には、自ら近所の児童相談所に駆け込んだことも。しかし、職員からは「あんたがかわいくないから、かわいがってもらえへんのやろ。もっとかわいくして、お父さんにかわいがってもらい」と言われ、家に追い返されました。40年前、虐待に対する社会の認識はお粗末なものでした。
小学校で先生や友達にいじめられても「休む」という選択肢はありませんでした。なぜならなつきさんにとっては「学校の給食が唯一、自由に食べられるご飯だったから」です。
「この頃はよく『空気になりたい』と思っていました。空気になれば、殴られることもなければ空腹に苦しむこともなく、人に必要とされるのになって」
人間でいるよりも空気になったほうが幸せだと感じるような人生を、当時のなつきさんは、送っていたのでした。
11歳の時、母親が養父と離婚します。それまでなつきさんは兄からも暴力を振るわれていましたが、当時中学生だったその兄は離婚後も転校しないことを望み、しばらくの間、祖母や叔父の家に身を寄せることに。妹は父親(なつきさんの養父)に引き取られたため、なつきさんは母親と2人で暮らすことになりました。
これでようやく穏やかに暮らせるはず――そう思いましたが、望みはすぐに断たれます。母親は昼も夜も働きに出て、なつきさんは1人孤独な生活に取り残されたのです。学校に通いながらすべての家事を引き受けたのは、母親に「いい子だね」「ありがとう」と言ってもらいたい、その一心でした。しかし母親の口から出るのは相変わらず、否定的な言葉ばかり。しだいになつきさんは、精神を病んでいきます。
精神科にかかるようになったのは中1の時、胃潰瘍になったのがきっかけでした。中3の頃には精神安定剤や睡眠薬を服用しており、学校へは行ったり行かなかったり。そんな状況でも「受験勉強を頑張ろう」と思ったのは、「地域でいちばん上位の高校に進んで、母親に褒められたい」と思ったから。
しかしというべきか、案の定というべきか、志望校に合格したなつきさんへの母親の言葉は残酷でした。「これでまた3年タダ飯食わさなあかんねんな」。なつきさんはこれ以降、乖離の症状を悪化させていきます。初めてリストカットをしたのも、初めてOD(オーバードーズ=薬の過剰摂取)をしたのも、この頃でした。
中学の先生に助けられたこともあります。受験の1カ月前に母親が自殺をほのめかして家出をした時も、なつきさんが初めて腕を切った時も、担任や数学の先生が駆け付けて、面倒をみてくれました。
母親は来なかったため、なつきさんは1人で高校の入学式に出席しました。しかし、この日を最後に高校は休学し、精神科の病院に入院することに。初めは統合失調症と診断されましたが、医師が変わるごとに診断名も変わり、薬だけが増え続けていきます。当時、なつきさんにとって薬は「唯一、私の期待を裏切らない支え」だったそう。
なんとか4年で卒業できたのは、なつきさんの努力はもちろんのこと、高校の先生たちのおかげもありました。入院していた病院から学校までは距離が遠く、何度も電車の乗り換えが必要だったのですが、たまたま病院の近くに住む数学の先生が、毎朝なつきさんを車で拾って学校へ連れて行ってくれたのです。
成績も出席日数もぎりぎりでしたが、「足りないとなると、私1人のために補講をやって単位をくれたりして、なんとか救済してくれた」そう。昨今は先生たちも忙しく、こんな親身にはなれないかもしれませんが、当時なつきさんが周囲のサポートを得て高校を卒業できたのは、何よりのことでした。
高校時代の記憶も、途切れ途切れです。登校したはずなのに、「気づくと名古屋にいた」といったことも、時々あったそう。なつきさん本人が知らない間に、別人格はいったい何をしていたのか? 今でも、まったくわからないのだと言います。
高校卒業後も、実にいろいろなことがありました。最初の結婚は22歳。24歳で阪神・淡路大震災に遭い、この年ようやく念願の子どもを授かります。しかし結婚生活は困難を極め、産後は関東へ引っ越したのち、離婚することに。29歳で再び結婚をして第2子を授かりますが、33歳で2度目の離婚をします。
結婚や出産を繰り返したのは「男性依存と男性恐怖症の両方があったから」。孤独は耐えがたいものの男性は恐怖の対象でもあるため、「子どもをつくる」という明確な目的がない限り、肉体関係は受け入れられません。そのため「結婚という型にはめるしか選択肢がなかった」のです。
虐待を受けた人のなかには「子どもを持ちたいと思えない」という人も時々いますが、なつきさんはそうではありませんでした。親戚の幸せな家庭を見てきたため、「子どもを持ちたい」という気持ちはずっとあったそう。ただし、自分が親にされたようなことは絶対に子どもにしたくない。ひたすらにそう思いながら、2人の子どもを育ててきました。
離婚は2度とも、子どもを守るためでした。1度目はなつきさんがぜんそく治療で入院している間に夫が失踪し、「最も頼りたくない」母親に頼って子育てするしかなかったから。2度目は実子が生まれた途端に夫が豹変し、上の子(継子)につらく当たるようになったから。継父にひどい虐待を受けて育ったなつきさんは「もう1人の私を作りたくない」と思い、夫が初めて子どもに暴力を振るった翌日、離婚しました。
引っ越し魔で、これまでの転居回数は25回。せっかく人間関係を築いても、「自分から壊しに行く衝動」に駆られるため、「ゼロからやり直すためのリセットキー」として、引っ越しをせずにはいられないのです。この間、整形外科や内科、精神科への入退院も繰り返し、服薬量は増えるばかりでした。
最初の妊娠がわかったのと同じ頃、叔父の葬儀に出たストレスなども重なり、ぜんそくを発症してしまいます。30歳から10年もの間、車いす生活を余儀なくされたのは、ぜんそく治療で使われたステロイドにより“大腿骨頭壊死症”を患い、さらに医療ミスも重なったためでした。
歩けなくなってからは母親が同居し、なつきさんの入院中など、子どもたちの面倒をみてきたそう。意外に感じられるかもしれませんが、虐待親が“孫”をかわいがることは、珍しくありません。なお、子どもたちは2人とも、広汎性発達障害の診断を受けています。
2人の子どもを抱えるシングルマザーとなってから、なつきさんは職業訓練校に通いながら猛勉強をして、わずか3カ月で簿記3級と2級にダブルで合格します。言うまでもなく、これは決して簡単なことではありません。この資格を武器に、障害者枠で、一流企業の職を得ることができました。
こんなにも頑張れたのは、上の子を私立の学校に通わせ続けたいという、その一心でした。小学校時代は不登校だった上の子のため、中学は30校を見てまわり、ようやく合うところを見つけて毎日通えるようになったのですが、それが私立の学校だったのです。
職場では仕事をするほどに評価を受け、やりがいのある仕事を次々と任せてもらえるようになりました。経済的にも余裕が生まれ、「初めて生きる価値、存在意義みたいなもの」を感じたといいます。しかし今度は無理をして働きすぎてしまい、服薬量は天井知らずとなっていきました。
ついにバランスが崩れたのは2010年。きっかけの1つは、当時放映された人気ドラマ「Mother(マザー)」の虐待シーンです。これを見た母親が、「こんなかわいそうなこと、ようするな。こんなんやったら産まんかったらええのに」とつぶやいたのです。
なつきさんのなかで煮え立つ「おまえが言うな」という母親への怒り。このとき、ずっと抑え込んできた負の感情が決壊してしまったのかもしれません。
なお、この頃は「恐ろしいほどの量の薬」を飲んでいましたが、もはや効き目はなく、薬の切れ目に強いフラッシュバック(時間や場所が虐待被害の時に飛ぶ、鮮明な記憶のよみがえり)が起きるような状態でした。
現在の主治医と出会ったのは、それから間もなくのこと。数年前に「解離性同一性障害(多重人格障害)」の診断を受けたものの、なかなか治療を受けられる病院が見つからなかったのですが、今の病院が「処方薬依存」の患者として、なつきさんの入院を受け入れてくれたのです。
過去25年、さまざまな病院の精神科にかかってきたなつきさんは、今回もこれまでと同様に「入院して強制退院させられるだけだろう」と思っていました。「病気を治してくれること」など、期待もしていなかったのです。
しかし、この病院で受けた治療は、かつて経験してきたものとはまったく異なっていました。入院後間もなく、主治医はなつきさんの過去のエピソードに照らしながら、解離性障害について詳しく説明してくれました。それまでは記憶が欠けていることが不安で仕方がなかったのですが、説明で病気をある程度理解できるようになったことは、なつきさんにとって大きな前進でした。
またこれまでは入院すると薬漬けにされ、保護室に入れられたり、保護着で拘束されたりしてきたのですが、今回はそれもありません。治療の中心は、患者の仲間同士で行われるミーティング。初めのうちはほかの人の話を聞いても、「自分のほうが大変だ」としか感じませんでしたが、しだいに仲間に対して連帯感のようなものを抱き、大きな力をもらうようになりました。
最も印象に残っているのは、入院して半年経った頃にミーティングで言われた言葉です。当時なつきさんは会社を休職し、東京で買ったマンションのローンを払いながら、子どもたちを母親に託していました。そんな彼女に、仲間の1人がこう言ったのです。
「そんなにたくさんのものを両手いっぱいに抱えていたら、回復を手にすることはできないよ。今の状態になったのは誰の責任でもないけれど、回復するのはあなたの責任でやらないと」
決して、すぐに受け入れられるアドバイスではありませんでした。これまで並々ならぬ思いと努力で手に入れてきたものを手放すことへの抵抗感。最初は拒絶していたのですが、しかし日が経つにつれ、「回復するにはそれしかない」という思いが芽生えてきます。
そこでようやく会社を退職して、マンションを売却。さらに、母親の元での養育が難しくなっていた下の子を一時的に施設に預け、改めて治療に専念することにしたのです。つらい決断でしたが、これは子どもたちの将来のためにも、どうしても必要なことでした。
それまで誰にも話せなかった性虐待の経験や、抱えてきた罪悪感を主治医に話したのも、この頃です。主治医はその後、繰り返し「あなたは悪くない」「あなたは子どもで無力だった」「生きていてくれてよかった、ありがとう」と言い続け、なつきさんの罪悪感を打ち消す手助けをしてくれました。
約4年にわたる入院生活のなかで、さまざまなトラウマ治療を行った結果、乖離の症状は改善していきました。フラッシュバックを起こすことや、別の人格が現れて記憶を失うことがなくなったのです。
さらにこの間、近隣の大学病院の整形外科を受診したところ、治療計画が見直され、歩行リハビリを行うことに。結果、車いすも使わず、元通り歩いて生活できるようになりました。
退院後、なつきさんは病院の近くに居を構え、すぐに子どもたちを呼び戻しました。今はパートの仕事をしながら、穏やかに暮らしています。最近は、就職した上の子の強い希望により母親も同居するようになり、さらに妹も加わって、5人+犬2匹という大所帯になっているそう。
「間違って生まれてしまった」という思いや、幼い頃から抱いてきた罪悪感は、今も消えていないものの、それでも以前のように転職や引っ越しを繰り返して「人間関係をリセットする」必要はなくなりました。処方薬ももう、めったに飲みません。
今の病院はなつきさんにとって、「まるで実家のような場所」だと言います。困ったときには相談に行き、精神的にきついときには短期入院をさせてもらうこともあるそう。
なつきさんはここまでの人生を、こんなふうに振り返ります。
「決して恵まれていたとは言いがたい人生ですが、私は今、それなりの生活を送ることができ、普通に幸せだと思っています。私が自助グループで感じた『私だけじゃなかった』という思いや、目の前の霧が晴れるような感覚を、ほかの人にも感じてもらえたら、うれしいのですが」
きっと、届いていると思います。