栃木県出身の山口祐吾さん(仮名、31歳)は、大学進学を機に上京し、都内で働いていた。しかし約3年前から認知症の母親(70歳)の遠距離介護を開始。その後、仕事を休職し、母親と同居して介護に専念。父親は健在だが約20年前から別居。同じ県内に兄、姉がいるがあてにならない。山口さんは「自分がなぜシングル介護をしなければいけないのか。『家族全員死ねばいい』と思うことがある」と話す――。
※この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、未婚者や、配偶者と離婚や死別した人、また兄弟姉妹がいても介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。
写真=iStock.com/kieferpix※写真はイメージです
目次
栃木県出身の山口祐吾さん(仮名、31歳)は、兄(38歳)、姉(33歳)を持つ、3人兄弟の末っ子だ。大学進学を機に上京し、都内で働いている。
兄も独立し、現在は栃木県内で教員をしている。姉は、大学時代に同棲相手との関係悪化で自殺未遂をし、そのときの後遺症で視力が低下。中学時代から続いていた摂食障害も悪化し、障害者手帳を取得。以降、実家に引きこもり、母親(70歳)に介護されていた。
両親は、ともに栃木生まれ栃木育ち。父親(77歳)は長男、母親は姉妹の長女で、結婚当初から両家の跡継ぎ問題を抱えていた。そのため当座の折衷案として、両家の中間地点にある賃貸アパートで結婚生活を開始し、山口さんら3人の子どもはそこで生まれ育った。
父親はすでにリタイアしているが、50代後半の頃、自身の母親が要介護状態になったのをきっかけに、実家へ移住。一方母親は、兄と山口さんが独立・上京しても、賃貸アパートで娘(山口さんの姉)の面倒を見ながら、自身の母親の介護のために、実家へ毎日通う。
山口さんは、上京してからも2~3カ月に一度は帰省していたが、精神的に不安定な姉が激しく拒むため家の中へは入れず、母親と外で食事をして東京へ戻っていた。
「私は末っ子にもかかわらず、自分が親を看るものという認識が小さい頃からあって、大学を出て働きながらも、『介護と仕事の両立セミナー』などに参加していました。やがて、母は2016年頃から会話中に言葉が出なくなったり記憶が無くなったりしていることが増え、『認知症の初期症状だろうな』と……。しかし、まだ車の運転もできていたし、当時は、姉や祖母の介護に無我夢中で、病院に行くことを打診しても受け流されていました」
そして、2017年がやってくる。
この年は、山口さんの人生にとって極めて大きなターニングポイントとなった。まず、2月に母方の祖母が亡くなり、7月に姉が摂食障害の悪化により入院した。
山口さんは、姉が入院しているすきに母親を説得し、病院へ連れて行くと、やはり「アルツハイマー型認知症」と診断がおりた。母親67歳、山口さん29歳だった。
これを受けて、山口さんは帰省の頻度を増やした。2、3カ月に1回から、月に2回へ。働きながら、母親の元に戻って遠距離介護するようになった。自分が面倒を見ることができない日に関しては訪問介護を受けようと考えたが、訪問介護士が契約に来た日に、母親が「自分の身の回りのことはまだ自分でできる」と言ってかたくなに拒否した。
山口さんは遠距離介護の限界を感じ、2018年3月、休職することを決意する。介護100%の地獄のような生活に突入したのだった。
母親と姉が長年暮らしていた賃貸アパートは、ゴミ屋敷と化していたため、蓄積していたゴミや家財を分別・処分し、滞納していた家賃や光熱費をすべて精算した。
この頃母親は、料理ができなくなり、固いものは細かく切ったり、やわらかくなるまで煮こんだりしないと食べるのが難しくなっていた。また、入浴したがらなくなり、デイサービスで体を洗ってもらっていた。
山口さんは、日に日に症状が悪化する母親を目の当たりにして、「介護度が一番低い要支援1でこれだけ大変なら、これからどうなるんだろう」と絶望的な気持ちになったのを今もよく覚えている。そして同年7月、「さすがに要支援1ではないだろう」と思い、介護度を再審査してもらった結果、10月に要介護3と認定された。
写真=iStock.com/Pornpak Khunatorn※写真はイメージです
この結果を受けて11月、山口さんは兄と同じ市内に中古マンションを購入。兄に母親を説得してもらい、賃貸アパートを引き払って、その中古マンションに母親を引っ越しさせた。
「祖母が住んでいた母の実家へ移るという選択肢もありましたが、山深く不便だったため、介護を要する人が住むのに適した地域で暮らしたほうが良いと考えました。母は、60半ばでデイサービスに通うことに抵抗を感じていましたが、引っ越し先には顔見知りがいないため、かえって気が楽だったようです」
マンションの購入費は、山口さんが全額負担。就職して以来、コツコツ貯めたお金を充てたため、通帳の残金は微々たるものとなった。
山口さんにとって人生の転換期となった2017年は、母親の介護生活がスタートしたこと以外にも、家庭の関係性が大きく変わった年だった。このことが、のちの母親の介護に経済的な側面で暗い影を落とすことになる。
2017年2月、母方の祖母の葬儀前日に、父親から電話があった。
「父は、『葬式をするから金を出せ』と、兄と私に要求してきました。母方の親戚たちは、『お金がないならそれなりの葬儀で良い』と考えていたにもかかわらず、自分の見栄のために、勝手に採算度外視の葬儀を決めてしまっていたんです。父の身勝手さにあきれ、葬儀中も怒りを抑えるのに必死でした」
このとき山口さんは、豪華な葬儀を決めてしまったために費用が足りなくなったのであって、生活するためのお金は特に心配する必要がないと思っていた。
ところが、寝耳に水の話を聞かされる。同じ年の夏ごろ、父親は「(母・姉が住んでいた賃貸)アパートの電気代が払えず、電気を止められている」と言い始めたのだ。さらに、父親と母親と姉が契約している携帯電話料金が、月に計10万円以上もかかっていること、さらに賃貸アパートの家賃を6カ月も滞納していたことも発覚した。
携帯料金の明細を確認すると、姉がスマホゲームで頻繁に課金をしていたためだと分かった。山口さんは、兄とともに姉の入院先へ行き、明細を見せて厳重注意した。すると姉は涙を流して謝罪し、反省の弁を述べた。
写真=iStock.com/west※写真はイメージです
そして「なぜ電気が止められるのか?」「家賃を滞納しているのか?」と両親に問いただし、父親と母親の通帳と印鑑をすべて没収。2人の通帳を見ると、1000万円以上あった父親の退職金は跡形もなく、貯金は底を尽きていた。裏切られたような気持ちになった山口さんは「ふざけるな! 家族全員死ねばいい!」と思ったと当時を振り返る。
「父も母も、親がしっかりした人で、それなりに資産もあったため、お金に苦労した経験がなかったようです。そのときまで何とかなっていたのは、専業主婦と子ども3人を、男一人の稼ぎで養えたという時代背景と、たまたま祖父母が遺してくれた財産があったからにすぎないのだと確信しました。つまり、家族の中に、まともに金銭管理ができる人間が一人もいなかったのです」
母親は家計費が足りなくなると、祖父が残してくれた山林を売って急場をしのいでいたが、焼け石に水だったようだ。山口さんは、兄の了承を得て、両親の通帳を預かり、年金の中から毎月必要な分だけ渡すことにした。
山口さんには、兄(38歳・教員)と姉(33歳・摂食障害により入院中)がいる。兄は、2年前に山口さんから母親が認知症になったことを聞いたとき、「母さんという存在は、ずっと元気でいるものと思っていた」と、ひどく驚いていた。
「母は、兄には暗い顔を見せたり愚痴を言ったりしたことがないので、兄がそう思うのも仕方がないのかもしれません。兄はずっと家の中の独裁者で、激昂すると手がつけられないところがあり、私もずっと怖くて苦手でしたが、母が認知症になったことを知ったときから、少しずつ変わり始めました」
それまでは同じ栃木県内にいながらも母親や姉など家族を顧みることは一度もなかったが、通院や要介護申請の面談など、要所要所で家族の用事に時間を割いてくれるようになった。
「兄は、『施設入居にかかる費用は負担する』と言ってくれたのですが、当時母はまだ要支援1。要支援1でも入所可能な施設もありましたが、認知症患者は受け入れられないところが多かったのと、母が施設を嫌がり、結局、兄も入所費用面が高いことなどに難色を示したため、断念しました」
写真=iStock.com/Wavebreakmedia※写真はイメージです
父は、幼い頃から気性が激しく、横暴な兄に半ば恐れをなし、姉には甘く、やがて実母の介護をするという名目で逃げるようにひとり実家へ移った。一方、小さい頃から終始、甘やかされて育った姉は、反抗期を迎えた頃から、家庭内で傍若無人に振る舞うようになった。
そうした「問題あり」を抱える兄・姉の下、末っ子の山口さんは、両親に甘えたり反抗したりできないまま育った。賃貸アパートの狭い実家に居場所はなく、母方の祖父母の家で過ごすことも少なくなかった。
「母は何かにつけ姉を心配するので、どんなに私が母の世話をしたとしても、結局母の中の私の優先順位は最下位なのかなとむなしくなります。まだ母が認知症になる前、帰省する度に、母のためにお金を渡して帰りましたが、それらが、後で、姉のスマホゲームの課金代に消えたことがわかった時は本当にやるせなかったです。ゴミ屋敷状態になっていた実家も私一人で片づけましたが、母の日や誕生日に私が贈ったプレゼントが未開封のままゴミの中に埋もれており、その都度自分なりに悩んで選び、心を込めて贈ったものが母には伝わっていなかったのだと思うと、悲しくなりました」
母親は、兄が生まれる前に幼くして2人の子どもを亡くしていたことから、「子どもは生きていてくれさえすればいい」が口癖。手先が器用で、幼少期は洋服を手作りしたり、手の込んだ料理を作ったりしてくれた。
「私は毎朝仏壇に向かって手を合わせる母を見てきたので、苦労をかけられないと思いながら育ちました。母は私にとって守るべき存在で、早く自立して親孝行したいと思っていました」
山口さんは、父親には母親が認知症だということを伝えたが、「自分の妻が認知症になったことを認めたくない」ため、最初は母親を病院に連れていくことさえ反対した。最近は「妻に忘れられてしまうのが寂しい」とは言うものの、「親の介護は子どもがするもの」という考えにより、経済的にも物理的にも父親からの手助けはない。
きょうだいの中で世話をする者が自分以外にいない母親が要介護3の認定を受けた時、山口さんは勤めている東京の会社を休職し、栃木県内に中古でマンションを買って介護に専念することを決意した。
以来、床の張り替えや家具・家電の購入、管理人へのあいさつや駐車場探しなどをこなしながら、役所との連絡調整や面談、新しい自治体でのケアマネ探し、さらに、母方の祖父母宅や森林を母名義に変える手続きや、祖父母宅と森林の管理なども、たった一人でおこなってきた。
雑務をこなし、帰宅をすれば、母親の食事の支度や洗濯などの家事が待っている。そうやって同居介護を始めて半年ほどたった頃、山口さんは交通事故を起こしてしまった。
「たぶん介護疲れが蓄積していたんだと思います。人生初の交通事故も精神的にショックでしたが、相手方の運転手の父親だという人物がやってきて、こちらが非を認めているにもかかわらず、ひどく罵倒されました。相手の運転手に対して『成人してまで親に頼るなよ』とあきれる気持ちと、『自分は家族の誰にも頼れないのに……』という嫉妬みたいな感情がごちゃまぜになって、苦しくなりました」
相手にケガはなく、警察や保険会社と連絡を取って事後処理を終えたが、山口さんの心は大きく揺さぶられた。
「『95%はお前がやっているのは認めるが、残りの5%は俺にしかできない』とよく兄は言いますが、実際その通りです。私がどんなに家族のことを考えてベストな選択をして動いても、どうしても兄の力が必要になる。それは、他の家族は(実質的な家長である)兄の言うことしか聞かないからです。家族内カースト最底辺である私一人では、母に対して100%のサポートはできないんです」
写真=iStock.com/tommaso79※写真はイメージです
以前のような横暴さはなくなった兄だが、山口さんがメールを送ってもろくに返信せず、電話をしても出ないことが多い。肝心なときに頼りにならない兄に嫌気が差し、ついに山口さんは、「あなたの働きは5%にも満たない」と言い放った。それを聞いた兄は激昂し、絶縁状態になってしまった。
「家族で唯一話が通じる人だと思っていましたが、相変わらず取り付く島がなく、『私に頼れる家族はいない』という現実を思い知りました。本当に孤独でした……」
山口さんは母親がデイサービスに行っている間などに、母方の祖父母の家の裏山に入り、ジャングル状態の草木を刈りながら、大声で叫んだり泣いたりした。
「母と一緒に死ぬ夢を何度も見ました。車で転落死したり、火事で焼死したり、津波に流されたり。私が家族を殺して血まみれになる夢も数え切れないほど見ました。『自分が死ねば、いろいろ解決するんじゃないかな』とぼんやり思うこともあります。私が死ねば保険金が入るだけでなく、母の介護をする人が不在となり、要介護3なら施設入居も可能になりますから」
疲労と他の家族との葛藤に苦しむ山口さんをよそに、母親はデイサービスに通うようになって性格が明るくなった。
「母は認知症ですが、足腰はしっかりしているので、自分より年上の利用者の手伝いをして感謝されることがあり、うれしそうです。また、入浴後にネイルやお化粧をしてもらい、子どものように喜んでいます。今まで子育て一筋で、自分の美容は二の次だった母が、『やっと誰かに甘えられるときが来たのかな』と思うと、皮肉な話ですが、認知症になってよかったのかなとも感じます」
ただ、認知症の症状は進んでいる。最近は何を言っているのか分からず、いつもそばにいる山口さんでさえ聞き取れず、まともな会話もできない。トイレも着替えも一人では困難で、食欲も落ち、食事の仕方を忘れることも頻繁にある。それらすべてのフォローを山口さんひとりがしていたが、意外な“救世主”が現れた。
「けんか別れになった後、兄は私がマンションにいないタイミングを見計らって、母の食事を作りに来ていました。母の現状を目の当たりにするうちに、介護の大変さを実感したようで、最近はやっと、『お前じゃなきゃできないことだった。頭が上がらない』と、感謝の言葉のようなものをかけられました」
兄とのわだかまりは徐々になくなり、今では母親の施設入所を相談・検討する関係となっている。初めて「味方」の存在を得た山口さんはここまでの遠距離介護や同居介護をこう振り返った。
「これまで出会った介護関係者に、父健在、兄近居という状況で、『なぜあなたがそんなに全部背負うのか?』と聞かれることが多々あり、自分が親を看取るものという、私の認識がゆがんでいたのかもしれないと思うようになりました。それでも、母の介護をすると決めたことに、『一切悔いはない』と言い切れます。もしも母の介護にここまで向き合っていなかったら、後ろめたい気持ちが一生ついて回ったはず。介護の合間に母と温泉旅行もできましたし、自分なりの親孝行ができたことに感謝しています。しんどいことも多いですが、逃げずに向き合ったことで、いつか迎える母の葬儀でも、母の墓前でも、心から笑っていられると思います」
写真=iStock.com/Nayomiee※写真はイメージです
山口さんは、2020年2月に復職を果たした。
「東京に帰る場所があると思うと頑張れました。上司は介護に理解がある人でとても救われましたし、月に1回ほど東京の職場の先輩や大学時代の仲間と会うことは、良い息抜きになりました」
「東京の居場所」が心の拠り所になった。
「これからも母が産んだ5人の子どもの代表として、育ててもらった恩はきっちり返していくつもりです。さらに言えば、父と母が両家の後を継ぐという問題に正面から向き合わず、約50年間もなあなあにしてきたツケもひっくるめて、『全部私がカタを付けてやる!』という使命感に燃えています」
山口さんは、「不幸にならずに介護を終えられる人が一人でも増えてほしい」という願いを込めて、認知症の母との日々―29歳で始まった介護録―というブログで自分の体験を発信している。