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発達障害の僕が社会人になって知ったこと”僕はジョブズではない”まで30年

発達障害の僕が社会人になって知ったこと "僕はジョブズではない"まで30年

早稲田大学を卒業し、文句のつけようのないホワイト企業に入社するも、約2年で退職。その原因は「発達障害」だった。大学までは「圧倒的に出遅れた後、後半で爆発的な加速をしてマクる」でも乗り切れるが、仕事を始めるとそれでは成り立たない。社会に適応するには「自分には欠損がある」と認識をあらためる必要がある。発達障害の当事者が、32歳で気づいた「人生でうまくやる方法」とは――。

※本稿は、借金玉『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

診断を最初に受けたのは大学生のとき

僕が発達障害の診断を最初に受けたのは、大学生のときでした。そのときは、「なるほど、これが自分の人生がうまくいかなかった理由か」と何となく思う一方、同時に「発達障害がある自分というのは、何らかの才能があるのかもしれないな」という甘い予断もありました。

僕の失敗続きの人生が「致命的」なものであることを、まだ受け入れられていなかったのかもしれません。当時は、「発達障害」について調べると「あの偉人もあの天才も発達障害だった」みたいな内容が随分目についたのを覚えています。しかし、僕の人生を振り返るとやはり発達障害というのは「厄介な障害」でしたし、それがもたらした困難は小さいものではありませんでした。

「文句なしの職場」に適応できず

僕の社会人としてのキャリアは、文句のつけようのないホワイト企業から始まりました。もちろん激務感がゼロだったわけではありませんが、一般的な水準から見れば給与は高く、休みは多かったと思います。福利厚生はこれ以上ない水準でそろっており、教育環境は極めて高いレベルで完備され、まさしく文句なしの職場でした。

写真=iStock.com/georgeclerk

大学4年生の終わり頃、あの浮かれた気分を僕はいまだに覚えています。ついに俺はここまで登りつめたぞ。田舎者の発達障害者だってやればできるんだ。未来は希望に満ちていました。七転び八起きの人生だったけどやってやったぜ。そんな気持ちだったと思います。

それから約2年後、僕は職場から敗走することになります。それは、僕の敗走人生の最も代表的なエピソードと言えると思います。

職場に入って一番先に思ったことは、「こいつらみんな能力高い!」ということでした。もちろん、能力の一番尖(とが)った部分で後れを取る気はない、くらいの自負は僕にもありましたが、総合的な能力のバランスという面で僕は同期の中で圧倒的に劣っていたと思います。端的に言えば、能力のムラがありすぎました。

ホワイト企業の最も厄介な面はこれです。学歴はあって当たり前。その中でさらに苛烈な選抜をくぐり抜けてきた彼らは、「何もかも普通以上にできて当たり前」なのです。

新卒にいきなり難度の高い仕事が回ってくることなどありません。「誰でもできる仕事を効率よくこなす」という点で競い合った場合、能力ムラが大きく集中力にも難のある僕は圧倒的な後れを取りました。

通用しなかった「後半で追い込み」

僕は、人生のほとんどを「圧倒的に出遅れた後、後半で爆発的な加速をしてマクる」というパターンで乗り切ってきました。文句なしのスロースターターです。どこかで強烈な過集中(ADHD傾向の人にたまに起きる強烈な集中。コントロール不能な場合が多い)がやってきて、全てをチャラにしてくれる。その繰り返しで生きてきました。

中学も、高校も、入試も、大学も、就職活動も全てこのパターンでした。例えば、1年間で一定のタスクをクリアするのであれば、僕はその半分は間違いなく浪費します。そして、誰もが「あいつはダメだ」と思った頃、強烈に加速してチギる。この繰り返しでした。

一番悪いのは、そのパターンで社会人になるまでは何とかなってしまっていたことです。僕は「出遅れなんていつものこと。どうせ後半になればいつものアレがやってくる」という強い楽観を無意識のうちに持っていました。

しかし、仕事というのはそういうものではありません。特に、巨大なシステムの歯車として機能する事務職においては、そのようなやり方は一切通用しません。安定した出力を常時出し続けることこそが一番大事なのです。突出する必要はありません。安定感こそが最重要です。僕には危機感がまるで足りませんでした。そして1年が経つ頃、僕は誰がどう見ても手遅れになっていました。

僕に仕事を教えようとする人間はおらず、また同情的に振る舞う者もおらず、それでも職場は問題なく回っていました。一度掛け違えたボタンは時間の経過とともに加速度的に悪化し、二度と元に戻ることはありませんでした。

問題を抱えつつギリギリで乗り切る日々

僕は大学生の頃には自分が発達障害であることに気づいていました。通院もしていました。もっと早く発達障害の対策に入ることは可能だったと思います。そして、そうしていればまた違う未来があったのかもしれません。しかし、ある意味運が悪いことに、新卒で就職するまでは結構何とかなってしまったのです。

高校は落第寸前の出席日数で、人間関係はほぼ全てで破綻を繰り返し、そのたびに別の場所に逃げる。定期的に2次障害(発達障害によって2次的に引き起こされる精神の病。うつなどが代表的。僕は躁(そう)うつ“双極性障害”です)が出て躁うつの波を繰り返し、薬物のオーバードーズと自殺未遂を繰り返す。客観的に見れば明らかにダメです。でも、その破綻寸前の生活を僕はギリギリの線で乗り切ってしまいました。

また、中途半端にテストの成績などは良かったため、問題がなかなか表面化しなかったのです。大学時代も薬物とアルコール、自殺未遂などは定期的にやらかしていましたが、「圧倒的に大学が楽しい」という事実が問題にフタをしてしまっていました。また、大学は圧倒的な規模があり、人間関係を次から次へと乗り換えることが可能だったため、さまざまな問題を回避することが可能でした。

「30代なんて僕にはないんだ」

そういった生き方に自分自身が酔っていた節も多いにあります。自己陶酔ですね。これが最悪でした。また、昔から僕は弁が立ったため、直面した大きな問題を口先だけで何とか乗り切ってしまえる能力がありました。そしてわずかではあるものの、僕のそういった性向を承認してくれる人間の確保にも成功してしまっていたのです。

写真=iStock.com/KatarzynaBialasiewicz

彼らは僕が破滅的に振る舞えば振る舞うほど喜び、承認を与えてくれました。このようにして、僕の反社会性は20代になっても衰えることなく保存されていったのだと思います。

僕は自分に30代があると思ったことがありませんでした。20代も後半にさしかかるまで、30代なんて僕にはない、自分は20代で死ぬ。そういう根拠のない確信を抱いて生きてきました。人生の問題を解決する必要性すら感じていなかったのです。自分自身に大きな問題があることには気づいていました。いつかそれは避けようがなくやってくるだろう、とは思っていました。

でも、その前に死ぬだろうとはもっと強く思っていました。根拠のない楽観と悲観を実に器用に使いこなして現実から逃避していたのです。本当にわれながら器用なことをしていたと思います。

発達障害という人生の問題と真正面から向き合ったのは、実はそれほど古い話ではありません。ほんの数年前の話です。定期的にきちんと医者に通い、服薬を欠かさず、さまざまな生活上の工夫を実践する。他者への共感的な振る舞いを試みる。定型発達者の考え方をエミュレートする。そのような習慣を身につける努力を始めたのは、25歳を超えてからでした。

もっと早く僕が圧倒的に打ちのめされる機会に遭遇していれば、事態はここまで悪化しなかったのかもしれません。でも、気づいたときには全てが手遅れでした。逃げて逃げて逃げて、ついに逃げ切れなくなったとき、やっと人生の問題と向き合ったのが僕です。

生活習慣という概念を持っていなかった

僕は、今でもあまり褒められた生活習慣を持っているわけではありませんが、人生のある時期まで生活習慣を作るという概念を1ミリも持っていませんでした。

僕が新卒で会社に入った後の生活習慣は、平たく言ってメチャクチャだったと思います(まぁ、それ以前はもっとメチャクチャでしたが)。帰宅するなり酒をあおり、明け方まで目を血走らせて過ごし、数時間の眠りについた後、身体を引きずるように職場へ向かう。こんなコンディションで良い結果なんて出せるわけがないのです。

自分の異常性に気づいたのは、深夜の3時にコンビニまで酒を買いに行ったときでした。仕事の始まりまではあとほんの6時間です。8時には家を出なければいけないのに、酒を飲み始めてどうしようと言うんでしょうか。でも飲んでしまっていました。

部屋中に酒の空き缶が散らかり、電話口からの異常な様子に気づいた当時の恋人が飛行機で駆けつけるまで、僕はその生活を続けていました。彼女が激怒しながら処分した空き缶は、一番大きいゴミ袋に3袋という量だったのを今でも覚えています。

机の上は空き缶の林のようになっていました。仕事を辞める、という判断は今考えると間違いではなかったのかもしれません。その後の起業という判断も正解だったとは言い難いですが、あの職場に残っても明るい未来はなかったでしょう。傷病手当や疾病休暇は取れたかもしれませんけどね。

そして、起業も一時の良いときはあったものの、つまるところ失敗に終わりました。

やっと気づいた「僕はジョブズではない」

悲惨ですね。こうして言語化してみると、僕は実に模範的な死に方をしています。事態の表面化が遅れたため、最悪の時点で発達障害と向き合う羽目になったとも言えます。逆に言えば、この失敗を逆さにひっくり返すと、多少は正しいやり方が出力されるのではないでしょうか。

「俺は発達障害者で特殊な才能を持っている」というある種の信仰、例えばアップル創業者のスティーブ・ジョブズも発達障害者だったと言われることがありますが(明確な根拠はないようです)、ああいった神話的な人物と自分を重ね合わせる悪癖が抜けたのは、本当に最近のことです。

早期に自己の問題と正面から向き合い、対策を講じ、職場などの人々に対して、あるいは他者に対して共感的に敬意を持って接する。あるいは、自己の適性に見合った職場に就く。それだけのことができれば、もっとマシな人生があったのかもしれません。

あなたが僕みたいにならないと本当にいいな、と思います。発達障害の発現形は実に人それぞれで、この本に書かれているライフハックが必ずしも通じるとは限りません。でも、少なくとも「僕はこのように失敗した」という知見だけは、あなたに落とし穴の位置を伝える役目を果たせると思います。

それでも社会で「やっていく」ために

現在の僕は、不動産屋の傭兵営業マンとして働いています。もちろん数々の失敗もありますが、職場にはそれなりに適応できています。「何でこんなことがほんの数年前の僕にはできなかったのだろう?」と、とても不思議に思います。

でも、できなかったんです。もしかしたら、少し発達したのかもしれません。もしくは、経験が増えて対応力が向上したのかもしれません。でも、できることなら同じタイプの苦しみをこの文章を読んでいる皆さんに味わってほしくはないと思っています。

発達障害の特性を強く有したまま人生を駆け抜けていける人も、まれにいます。それはそれでとても素晴らしいことです。

しかし、僕を失敗に導いたのは、まさしくそのような発達障害者たちの神話でした。自分は突出した能力を持っていて、それひとつで社会を駆け抜けていけるのか。それとも、欠損を抱えた人間として社会に順応していく努力を重ねる必要があるのか。僕は今、明確に後者が自分であると認識して生きています。

僕はジョブズではない。エジソンでもない。社会の中で稼いで生きていくためには、己を社会の中に適応できる形に変化させていくしかない。言うなれば、呑み込むべき事実はたったそれだけなんです。それさえできれば、後は具体的にどうするかという戦略を組み立て、トライアンドエラーを繰り返すだけのことです。

この文章を書けるようになるまでに、取り返しのつかない時間が浪費されました。何をどう悔いても、時間は戻ってきません。20代は終わってしまいました。

とは言え、僕はまだ人生を諦める気はありません。神話的な発達障害者になることを諦めただけです。地道に愚直に積み上げることを今更ながら目指すだけです。

そして、ほんの少しでもあなたのお役に立てればうれしいです。

借金玉(しゃっきんだま)
1985年生まれ。診断はADHD(注意欠陥多動性障害)の発達障害者。幼少期から社会適応が全くできず、登校拒否落第寸前などを繰り返しつつギリギリ高校までは卒業。いろいろありながらも早稲田大学を卒業した後、何かの間違いでとてもきちんとした金融機関に就職。全く仕事ができず逃走の後、一発逆転を狙って起業。一時は調子に乗るも昇った角度で落ちる大失敗。その後は1年かけて「うつの底」からはいだし、現在は営業マンとして働く。ブログ「発達障害就労日誌」(http://syakkin-dama.hatenablog.com)ツイッター @syakkin_dama


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