批判のバランスとコミュニティーの必要性について考えます(写真:Vladimir Zapletin/iStock)
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私は、批判を非常に大事なことだと考えていますが、だからといって批判された人が直ちにその批判を受け入れなければならないとか、批判されたら応答しなければならないとは一切思っていません。なぜなら、批判を受け入れさせようとする、応答させようとする行為は、大変危険な考え方にもとづいているからです。
適切な批判をすれば、わかる人には「適切な批判をした人」だとわかるし、適切な批判を受けたにもかかわらず、適切に返さなければ「まっとうな批判をも受け入れない人」と評価されるだけであって、それ以上でも以下でもありません。対応しない人に対して対応を迫るのは、連合赤軍の総括と同じで避けなければなりません。
前提として、規範に反するような人間はたくさんいるということです。そのような人間に批判を受け入れさせて、正そうとするのは難しいことであり、その行き着く先は「批判を受け入れない人間を消す」という考えです。
「規範に反するコイツはクズな人間だ! クズな人間を亡きものにしてしまおう!」というのは、日本で言えば連合赤軍、カンボジアではポルポト政権、中国であれば毛沢東率いる中国共産党による文化大革命と、大変危険な思想につながっていくことは、歴史が証明しています。本当にこれは地続きです。規範に反する人を見つけて「あいつは規範に反する人間だ! 罰しろ!」と言ってすぐに処刑するといったことは、歴史上、さまざまな場所で行われてきました。
ですから、批判はもちろんするのですが、それを強制的に相手に受け入れさせるというのは、越えてはいけない一線なのです。
私が誰かを批判して、相手がそれを受け入れて直してくれた場合、「この人は批判を受け入れて直してくれる人なんだ」と、相手に対して肯定的な評価をしますよね。でもそれはあくまで私の問題であって、相手の問題ではありません。それは「魂」とか、日本的に言うと「お天道様は見ている」という言葉がありますけど、最終的にはそういった目に見えないものが判断をすると心にとどめておくことが大切です。
イスラム法学者の中田考さんと中核派(警察からは「極左暴力団」、マスコミからは「過激派」と呼ばれる新左翼の2大党派の1つ)のある人物がすごく興味深い話をしていました。
中核派の人間は、労働した人間が中心になる世の中こそ正しいという思想を持っています。「労働者が権力を持たなければいけない」という彼らの主張に対して、中田先生が「それでは、労働しない人間はどうなるんですか?」と聞くと、彼らは「それは、みんなが労働するようになるんだ」と言うんですね。その考えでいくと、「それはすなわち労働しない人間は消すっていうことですよね」という結論に行き着きます。それは歴史的にもそうだったのです。
規範に反する人間は、いつの時代どの社会にも存在します。規範に反する人間はたくさんいて、イスラム社会でもお酒を飲むムスリムもいれば、豚肉を食べるムスリムもいますし、礼拝しないムスリムもたくさんいる。
ただ、それはダメなムスリムとして認知されるのであって、それ以上でも以下でもありません。規範に反したからといって、直接的に刑罰を受けることもなければ、ムスリムとして存在することを認めないというのでもなく、「あいつはダメなヤツだなぁ」と言って終われるのが適切な共同体です。
「ダメな人間をダメじゃないようにしよう、お前、目を覚ませ!」と強制して批判を受け入れさせるというのは絶対にやってはいけません。それを強制するのがいわゆる”カルト”です。
では、危険な思想を増幅させてしまった人に対して、どのように批判すればよいのかはまた難しい問題です。
相模原の障害者施設で起きた19人殺害事件の犯人・植松聖被告も、個人の間違った熱狂に狂った1人だと言えます。作家の雨宮処凛さんが植松被告と面会したときの様子を書いた記事(『「雨宮さんに聞きたいんですけど、処女じゃないですよね?」植松被告は面会室で唐突に言った』2020年1月31日配信、BuzzFeed Japan)にこんなことが書いてありました。
前提として、個人が狂ってしまうことはよくあることです。人間というのはひょんなことで簡単に狂ってしまう。私の周りにも、急に極右に振れてしまう人とか、極左の人でも悪いタイプの宗教に染まってしまう人たちとか、個人が狂ってしまうことはそこまで珍しいことではありません。そして狂ってしまった人たちは、他人の意見や批判に聞く耳を持たなくなります。
そのうえで、個人が狂ってしまったときに、どのようにして暴力的な行動に結び付けないようにするかという視点が必要になってきます。
1つは間違っていることに「それはおかしいよ」と冷や水をぶっかけるという正攻法。ただ、これが一定の効果を発揮することもありますが、熱狂してしまっている人には響かないことも多い。あとはやはり「コミュニティー」というものが必要になってくるのかなと思います。つまり、その人のことを周りで見ている人が必要で、本人も自分が「このコミュニティーに属しているんだ」という実感を持っていれば、「周りに迷惑はかけられないな」という感覚が芽生えてくる。人間の脳みそは強くできていないし、自分で律するにも限界があります。
東海道新幹線の無差別殺傷事件の犯人である小島一朗被告にしても、相模原の植松聖被告にしても、そういった抑止力となるコミュニティーというものがなかったように思います。とくに小島被告の場合は、「家族」というコミュニティーがなくなって、「もういいや」と最後の枷が取れたといった趣旨のことを手記に書いていました。
経済的な不安も大きい現代は、「家族なんてコストでしかない。だから要らない、自由になろう」という言説が、とくに若い人の間でははやっているような印象がありますが、私はむしろ逆で、家族とかそういう常識の縛りというのはあったほうがいいと思っています。そういう縛りがないと、人間は簡単に逸脱してしまうのです。
よくあるのは、奥さんや旦那さんに先立たれてしまった高齢者が、情報の取捨選択のなかで、常識的な思考からどんどん乖離していってしまうという例です。ただ、高齢者が危険な思考を持ったとしても、何か行動に移せるほどの実行能力がないので、そこまで危険ではありません。
ですから若い人が、「家族はコスト」といった考えをステレオタイプに受け入れてしまうと非常にまずいと思っています。
私も政党を立ち上げて、人に選挙に出ないかと打診していく経験を持っていますが、その中で反応として多く聞くのは「家族に反対されてできない」という意見です。でもそれはすごく健全なことだなと思います。急に政治なんて突拍子もないことをするときに、「ちょっとやめなよ」と言って、一旦止めてくれる人たちが周りにいるのはすごく大事なことです。
私も家族がいなければ、今より自由に動けるとは思いますが、それは必ずしもいいことではないというか、制限がかからない分、悪いことのほうが多いと思っています。
例えば、家族がいて子供が熱を出したから今日は動けないとか、そういう制約があるからこそ、人間の思考というのは暴走しないともいえるわけです。
人間は簡単に狂ってしまう。それを前提に、狂ってしまったときにそれを止める抑止力にもなる健全なコミュニティーが大事なのです。
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