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「LGBTの差別禁止条例」がむしろさらなる差別を招くという矛盾

「LGBTの差別禁止条例」がむしろさらなる差別を招くという矛盾

写真=iStock.com/Mixmike※写真はイメージです

現実社会には「圧倒的解決策」はない

三重県はLGBTなど性的少数者への差別を禁止する条例を制定する方針を決めた。その中には、性的指向や性的自認を本人の了承なく暴露する「アウティング」の禁止も含まれている。文筆家の御田寺圭氏は「この条例はかえって性的少数者に生きづらさを背負わせてしまう危険がある」と指摘する——。

三重県「アウティング禁止条例」の危険性

三重県で全国初となる「アウティング禁止条例」が施行されるかもしれない。LGBTなどの性的少数者に対する差別を禁止し、なかでも性的指向や性的自認を本人の了承を得ることなく暴露する——いわゆる「アウティング」を禁止する方針を盛り込むことを、鈴木英敬・三重県知事が議会にて表明したのである。三重県は3日、LGBTなど性的少数者への差別を禁止する条例を制定し、性的指向や性自認を本人の了解なく第三者に暴露する「アウティング」の禁止を都道府県で初めて盛り込む方針を決めた。鈴木英敬知事が同日の県議会本会議で表明した。

この条例が可決するようにと賛成した人びとは、まったくの善意にもとづいて行動したことだろう。性的少数者の生きづらさに心を寄せ、彼・彼女たちの権利を擁護し、生活上の困難の解消に少しでも寄与できればとの想いだったはずだ。

だが、皮肉なことにこの条例によって性的少数者の権利や尊厳がいまよりも擁護されたり向上したりする見込みは薄いといわざるをえない。それどころか、性的少数者が生きるうえで、意図せずさらなる「生きづらさ」を背負わせてしまう危険性すらも内包している。

——なぜなら「条例にもとづくアウティングの『禁止』」は、周囲の人びとにとって「LGBTとのかかわりを積極的に回避するインセンティブ」を大きく高めてしまうからである。

「配慮」に息苦しさを感じる人たちが現れる

なんらかのマイノリティーの人びととかかわりを持つうえで、「~するよう(orしないよう)に配慮しましょう」という一定のコミュニケーション・コードが設けられることは、すべての社会の成員が等しく尊重され、その人らしく生きていくうえで重要なことである。

重要なことであるのは間違いないが、それ自体がかかわる側(マジョリティー側)の「コミュニケーションコスト」になっていることもまた事実である。

日常生活における何気ないかかわりのなかでも「やってはいけないこと、言ってはいけないこと、ふるまってはならないこと」をつねに念頭に置いておかなければならないことは、ニュートラルな人付き合いとは異なる性質のコミュニケーションとなる。

大なり小なりの認知的負担をマジョリティーとされる人びとに対して求めることになるためだ。もちろんその負担感は個人によって異なる。呼吸するように自然なふるまいで「配慮」を実践できる人もいれば、相当な緊張感とストレスのなかで、自分の言動を慎重に吟味する息苦しさを感じる人もいる。

「相談された人」は誰にも相談できない

しかしながら、マイノリティーとのかかわりにおいて求められる「配慮」のなかでも「~は(法律・条令により)禁止されます」という枠組みは、相手に最大級のコストを求めるものである。違反者へのなんらかの社会的ペナルティをともなう「コミュニケーションコスト」の負担要求は、人びとにとってはもはやたんなる「コスト」ではなくて「リスク」として見なされるようになってしまう。「配慮」に相当な負担感を感じていた人びとはいうまでもなく、これまでなら自然と「配慮」を実践できていた人にすら、マイノリティーとのかかわりにためらいを生じさせてしまうほどであるだろう。

この条例にかんしていえば、たとえばLGBT当事者からなんらかの相談を受けたとして、相談を受けた側の人にはその瞬間から「意図しようがしまいが絶対に口外してはならない、違反者にはなんらかの社会的制裁をともなう、禁じられた行為を生涯にわたって抱えるリスク」が生じてしまう。かりに自分がその禁則を堅守していたとしても、ほかのだれかが口外してしまい、しかも「アウティング」を行ったのはだれかが不明確な場合、自分にも「条例違反者」としての嫌疑がかかることになる。いったいだれがそのようなリスクが発生しうるコミュニケーションに率先して応じるだろうか。

「疎外する」のが最適なリスク回避になってしまう

あるいは、LGBT当事者の人から「望まない性的かかわり」を求められた場合においても、家族や知人など周囲に相談すると「条例違反」に抵触しうることになる。現時点では結局のところ、この条例に抵触せず、社会的ペナルティのリスクを引き受けない最善の方策は「LGBTとかかわらない、近寄らない、それとなく疎外する」になってしまう。

条例成立に携わった人びとの願い——「LGBTがいまよりも生きづらさを感じることなく、社会的に尊重され、尊厳を守られ、なおかつ包摂されてほしい」——とはまったく逆の結果が市民社会に生じてしまいうるのだ。これでは本末転倒である。

「大人の発達障害」でも同じことが起きている

「高まるコミュニケーションコスト」の問題はLGBTにかぎらず、他の社会的弱者に対しても当てはまる。いまその議論の最前線の一例が「(大人の)発達障害」だろう。大人の発達障害は、大学進学や就職、恋愛・結婚などがきっかけとなって見つかりやすい。高校までは時間割など決められた日課があり、教師や級友など限られた人間関係の中で過ごすため、発達障害の特性がカバーされ、個性として許容される部分も少なくない。しかし、大学では自身で時間割を組み立てて行動しなければならず、「クラス」がなく友人関係も多様になる。社会人になると人間関係はさらに複雑化し、周囲に合わせて空気を読み取るなど社会への適応が必要となり、生活に支障を来すのだ。

「発達障害」という概念が人口に膾炙かいしゃするにつれ、発達障害者に対する「理解」と「配慮」を求める流れが全社会的に生じてきた。

もちろんそれ自体は、社会的に大きな意義をもつ前進、あるいは救済になったという側面もある。「発達障害」という障害が広く世に知られる前は、こうした障害を持つ人は障害者だとは思われず「仕事の出来の悪い人」「頭の回転の鈍い人」「コミュニケーションができない人」などとレッテルを貼られ、爪はじきにされてきたからだ。

「差別者になるリスク」を回避する社会

しかし同時に、発達障害が社会的弱者としての顕著な意味合いを持つ「障害」として医学的に規定され、福祉の枠組みに捕捉されることによって、発達障害者にありがちな「コミュニケーション特性」あるいは「認知的・処理能力的偏り」を、実社会(とくに職場)で指摘したり批判したりすることは「障害者差別」にあたるものとみなされる風潮も強くなった。

むろん「差別」がよくないことはだれでも合意する。だからこそ、自分が「差別者」という社会的レッテルを貼られるようなリスクは極力回避しようというインセンティブが高くなってしまうのだ。たとえ攻撃的・差別的な意図がなかったとしても、発達障害者に対してコミュニケーションや仕事での付き合い方を誤れば、「差別者」「抑圧者」となってしまう蓋然がいぜん性が高まっていくにつれ、最初から近づかない——という選択肢の誘惑が強くなる。

「差別者は、いかなる理由があろうがぜったいに許されるべきではない」という政治的ただしさが全社会的に強まれば強まるほど、周囲の人にとっていわば「踏んではいけない地雷」の数も多くなってしまう。その結果、一般の人びとにとっての最善手は、アウティング禁止条例と同様に「そのような『踏んだら差別主義者として扱われかねない地雷』を多く抱えている人とは、そもそもお近づきにならないようにする」となってしまう。

ハイリスクな人をひそかに排除する「プランB」

私の偏見や絵空事によってそのように言っているわけではない。事態はすでに現実の水面下で静かに、しかし着実に、そして大きく進行している。

発達障害者や精神障害者、あるいは医学的な診断を受けていないだけでそれに類する気質を持つ人など、なんらかの「(条例や医学的診断や政治的ただしさなどを背景に)配慮されるべき弱者性」を持つ人びとを「身内」に招き入れてしまった場合に求められる「配慮コスト」が、ほとんど「社会的リスク」とイコールになってしまうほどに高まった場合において、マジョリティー側はよろこんでそのようなコストやリスクを甘受するわけではない。

甘受するどころかむしろその逆である。あくまで建前上は社会的風潮に従うそぶりを見せているものの「ハイリスクな人びとであることに気づかず、うっかり『身内』に招き入れてしまわないように、最初から高確度で検出して排除するような方法論を確立すればよいのだ」という「プランB」を模索している。

「メンタル不調」のリスクを調べる適性検査

マネジメントベースが提供する適性検査「リスクチェッカー」は、あくまで特定の病名を出したり、なんら医学的診断を下したりしているわけでは一切ないものの、私が見るかぎり、ASDやADHDなどの発達障害(傾向)、あるいは双極性障害や人格障害の可能性といった「企業社会でのリスク要因」となりうる人びとを検出しやすいトピックを設けているように見受けられる(念のため再度断っておくが、同社は医学的な診断を下しているわけではけっしてなく、あくまで「リスクを統計的に検出」することだけを目的として謳っているため、これをもって差別であるなどと断じるのは難しいだろう)。

Q:メンタル面のリスクを重視したいが、この検査ではどのような情報を提供してくれるか?
A:企業が最も知りたい点は究極的に、採用した後、「休職や離職に至るようなメンタル不調を発症するか否か」と考えます。単なる特徴としてのストレス耐性等の把握にとどまらず、このようなメンタル不調顕在化リスクを的確に診断するアウトプットを提示します。
その一方で、メンタル不調やストレス耐性の強弱についても様々な要因や特性があることが明らかになっています。それら要因やタイプについても従来の検査にはないカバー範囲でリスクを検出します。
一例をあげると、日本人に最も多い「うつ病」の潜在リスクだけではなく、最近の二十歳代に特有な「新型うつ病」、「未成熟うつ」と呼ばれるタイプや、頑張りすぎるタイプでストレスが心よりも体を壊すリスクの高い「タイプA」と呼ばれるタイプを把握します。
最近注目されているパーソナリティ障害(境界性、回避性、反社会性、統合失調症との関連性が指摘されている型など)の傾向も要注意です。なお心因性ではなく脳の問題に起因する発達障害傾向がある方の二次障害としてのリスクを指摘する専門家もいます。

「禁止」が強すぎると排除が加速する

「リスクチェッカー」が回避すると謳う種々のリスクは、会社組織の運営上にだけ存在しているわけではなく、現代社会における日常的な人間関係のリスクとも共通する点が多い。

というのも、たとえば発達障害者や精神障害者が二次障害としての人格障害(たとえば境界性・反社会性など、対人関係に著しいトラブルや困難を誘起するもの)にかかっていたとする。それによって対人関係のトラブルとなった際に諫めたり指摘したりすることにも、「差別主義者」のレッテルを貼られるリスクがともなってしまうためだ。

なんらかの弱者(マイノリティ)性に配慮しようとして、マジョリティーに「禁止事項」や「強い社会的制裁」を背景にした包摂を求めようとすると、かえって排除を加速してしまう。「身内」に入れてしまえば、きわめて高い「配慮コスト」「コミュニケーションコスト」が求められるからこそ「門前払いをする」という動機がますます拡大していく。企業社会でも、地域社会でも、個人的な人間関係でも、この流れは密かに拡大している。

お互いの「コストとリスク」を地道に知るしかない

よかれと思って、なんらかの弱者性によって生きづらさを抱えている人に心を痛めて思いを寄せ、政治的・社会的・道徳的優位性を付与しようとする良心的な人は多い。またその優位性を付与する際に生じるコストは、強者側が支払うべきであるとされる。その理屈自体は一理あるだろう。それこそが「多様性」や「寛容性」の根幹にあるものだ。

だが、その善意をうずたかく積みあげることによって、擁護したいマイノリティーを、いうなれば「無敵の弱者」にまで押し上げてしまうと、状況は不幸にも反転する。周囲に厳しい社会的制裁のリスクを負わせる「無敵の弱者」は、かえって鼻つまみ者になってしまうからだ。

コストを負いきれなくなった人びとは我先にと逃げ去る。「コスト」が「リスク」と同一視される世界では、差別や疎外を再生産してしまうのだ。

遅々として進まないように見える「マイノリティーが生きづらさを感じることのない世界」の実現。しかしだからといって、マジョリティー側に罰を負わせる形でこれを達成しようとすれば、大きな歪みが生じてしまう。現状を一気に打破するような圧倒的解決策は存在しない。

この社会の成員すべてが尊重され、尊厳を保たれ、同じ視線で「多様性」を維持するためには、お互いが生きる上で支払っているコストやリスクを地道に知っていくほかない。迂遠な作業かもしれないが、相互無理解に基づく憎悪や分断を招かないために取るべき方法はこれくらいしかない。「だれもが暮らしやすい社会を少しでも早期に実現するためには、より厳しい基準を設ければよい。市民社会がそのような基準に適応するように、しっかり価値観をアップデートすればよいだけだ」といわんばかりの性急な方向性には懸念を覚える。それは確実に大きな反動を形成するからだ。

急進的な「政治的ただしさ」による社会の浄化は結果的に社会の不安定性を高めてしまう——幸いにも私たちは、欧米圏の先攻事例から貴重な教訓を学ぶことができる立場にある。


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